映画「イノセンス」
Blogなどでみる限り、「イノセンス」への評価は、①すばらしい!②自分は好きだが一般受けしないだろう、③好きな人は好きなんだろうけど自分はだめ、④何じゃあれは!? の4つにほぼ大別できる。それぞれどのくらいの割合なのかはよくわからないが、直感的な印象としては、①派はせいぜい2割前後では?②が最も多く、次に③。①と④は同程度とみた。
評価する人たちは、何といっても⑤映像の美しさと⑥テーマ性を評価している。一方、評価の低い人たちが挙げる原因は、どうも⑦過去の名言の類からの引用が多すぎて白ける、⑧ストーリーが難解で退屈、の2つに集中しているようだ。まあ、どちらの言い分もわからなくもない。映画に芸術性を求めるか娯楽性を求めるかというのは、人によって答えの異なる水掛け論だ。全体として、もっと娯楽性を考えてもよかったのではというのが、世の中の作品評の傾向であると理解できる。
個人的には、②に近い考えだ。アメリカでも公開されるようだが、ハリウッド的勧善懲悪がお好きな一般アメリカ人にはとても理解できないにちがいない。前作「攻殻機動隊(Ghost in the Shell)」を見ていないと理解困難だし。⑦に関しては、引用そのものよりも、どこからの引用かいちいち解説するところが目ざわりと感じた。出典はプログラムにでも書いておけば上等だ。引用が多いという批判は多かったが、言われなければそうとわからない人のほうが多いだろう。
この映画を評価する人たちの仲には、物語の世界観に圧倒されたとの意見が少なくない。しかし前作「攻殻機動隊」でもそうだったが、この映画の独特な世界観のうち、かなりの部分が押井守監督というより、士郎正宗の原作からきていることは、主張しておくべきだ。「イノセンス」でも、ゴーストダビングされたロボットの暴走事件という基本構造は「攻殻機動隊」の第1巻、最後の戦いで船のシステムを制圧するときの描写は第2巻といった具合に、原作マンガのあちこちからほとんどそのままとられている。
1つだけ明確に気に入らないのは、草薙素子がバトーに対して言う「あなたがネットにアクセスするとき、私はいつもそばにいる」旨の発言だ。このような「素子=守護天使」観は、明らかに素子に関する見方を原作から大きくねじ曲げている。原作の素子なら、そんな面倒見のよいことはしない( 「攻殻機動隊」1.5巻での素子とバトーの再会シーンを想起されたい)。この映画は士郎作品の映画化というより押井作品であるという要素が強いのだから独自の解釈でいいではないかという考え方は、もちろん否定しないが、少なくとも士郎作品の独特の持ち味である主人公の「軽やかさ」が深刻げな表情にとって代わって全体に重苦しくなっていることは確かだ。
ともあれ、この作品で描かれた、脳がネットと直結する時代は、技術的には実はそれほど荒唐無稽ではない(関連ニュースはこちら)。優れた文芸作品の中にはときに将来の社会や人のあり方を考えるよい材料になるものがあるが、この映画もその1つかもしれない。
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