「空間型コンピュータ―『脳』を超えて」
廣瀬通孝著「空間型コンピュータ―『脳』を超えて」、双書 科学/技術のゆくえ、岩波書店、2002年。
目からウロコ、とはまさにこの本のためにある。
その昔、コンピュータはしばしば「電子頭脳」と表記された。膨大な記憶容量と超高速の計算スピードをもって、人間の能力を圧倒的に凌駕する存在。こうした「脳」の代替物としての中央集権型コンピュータ像は、もはや限界を迎えているという。本書がコンピュータの新しい姿として提示する「空間型コンピュータ」は、このパラダイムを根底からくつがえす。
空間型コンピュータとは、「バーチャル空間とリアル空間の融合、ユビキタスとモバイルがつくりあげる空間全部の超分散型電子化」を指向する新しいコンピュータ像である(本書表紙の裏書より)。・・・何のことかわかる方は正直いって少ないだろう。私もよくわからない。
拙い理解では、ひとことでいえば、空間型コンピュータは、脳の代替物を指向するのではなく、人間が持つ感覚器官を生かして人間と情報のやり取りをするために、人間を取り囲む「空間」たらんとするのである。脳の代替物とは、すべての情報を1箇所に集約して意思決定を中央集権的に行うアプローチを意味する。人間の判断を代替できるAIの開発などはこの指向に属するだろう。しかし少なくとも現在までのところ、この試みは成功していない。その「知能」は、2003年に生まれる「はず」だったアトムにはとうてい及ばず、せいぜいがペットの犬やら熊やらの程度だ。それに対して、空間型コンピュータの思想は、人間が全身の感覚器官を生かして行う「生きた」判断の力をもっと有効に活用すればいいのではないか、という考え方なのだと思う。
このキーワードにより、バーチャル・リアリティ、ユビキタス、モバイル、ロボット、サイボーグ、人工知能、仮想空間、分散型コンピューティングなど、一見それほど関係が深くなさそうにもみえるコンセプトが1つの線にまとまってくる。表紙裏書には「人類文化を変容させるこの科学技術とその意味を論じる」とあり、たいへんな大風呂敷にも見えるが、即座に否定してしまう前にまず一読されたい。技術の進歩は人間を変え、人間の社会を変えてきた。石器を作る技術、文字を紙に大量印刷する技術、蒸気の力で大きな機械を動かす技術、電波を使って遠くの人と通信する技術・・・。この仲間で最も新しいのは、コンピュータを使ったネットワークの技術だろう。この技術が、新しい空間型コンピュータという概念の下、人間とその社会をどのように変えていくのか。
そこまで深く考えこみたくない向きにも、この本はお勧めである。特に「攻殻機動隊」ファンなら思わず狂喜乱舞する内容ではなかろうか。うろ覚えだが確か原作マンガは1990年代の初めごろだったろうか。私は改めて士郎正宗の「ビジョン」をすごいと思った。
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Comments
違うかもしれないけど・・
まえにちょっと考えた人力分散コンピューティングと似てるような気がするので、トラバってみます
Posted by: m_um_u | June 03, 2004 05:08 PM
山口さん、はじめまして。空間型コンピュータの話は正確には分かりませんが、以下のような話を読んだことがあります。中央集権型コンピュータの発想は西洋キリスト教の一神教の発想であり、一方ユビキタスコンピュータなどは日本の八百万の神々のような多神教の発想に近い、と。現在、中央集権型コンピュータよりもユビキタスコンピュータの方が市場を席巻する勢いがあって、だからこそマイクロソフトが東大の坂村氏が生み出したトロンに屈したのだ、と。今後は日本人的発想が重要かもしれません。
Posted by: ykenko1 | June 09, 2004 02:30 AM
m_um_uさん、こんにちは。
人力分散系って、先日CNET Japanの梅田望夫氏のblogにゲストで書いていた方の記事ですね。確かに、コンピュータで何でもやってしまおうとせずに、人間の力を使おうとするところは、似ているかもしれません。ただ空間型コンピュータの話は、1人の人間を想定してその周りの空間をコンピュータで、…という話のようでもありますので、少しちがうかもしれません。まだ私よくわかっていないもので。もう少し考えてみます。
Posted by: 山口 浩 | June 09, 2004 12:22 PM
ykenko1さん、こんにちは。
面白い視点だとは思いますが、ちょっと納得いかないところがあります。中央集権型コンピュータが「西洋キリスト教」の思想なら、なぜインターネットはアメリカで生まれたのでしょうか?
それもさることながら、この種の問題に宗教を持ち出すことは少し危険です。対立や無理解の種になりますから。もし日本が分散型コンピューティングにおいて優れているなら、そのこと自体を誇ればいいのでは?少なくともいえるのは、日本が卑屈になる必要はない、ということなのかもしれません。この点においては、まったく同感です。ことコンピュータに関してはどうしてもアメリカ中心に考えられがちですから。
Posted by: 山口 浩 | June 09, 2004 12:32 PM
私としては宗教の話がしたかった訳ではなくむしろ民族性や文化、思考方式の話がしたかったのです。そして民族性の深い部分にやはりそれぞれの地域の宗教の影響は否定できないように感じています。もちろん宗教だけではなくて哲学その他の影響もあるのでしょうけれども。西洋の方々の思考法に原理主義的な思考法があると思います。つまりある真理に対して自分はどのように立つのかというアイデンティティのあり方です。一方、東洋の人間は相対主義というのでしょうか、人間関係の中での自分、社会の中での自分、というアイデンティティのあり方を追求する。そんなところから近代科学が西洋を中心として進歩してきた。ただ複雑系の科学などはむしろ東洋の思考法によって発展するのかもしれません。
コンピュータ業界では以前の予想としてはパソコンを中心としてすべての家電製品がコントロールされるようなシステムを予想していたようですが、実際にはそうはならなかった。ひとつには誰でもがパソコンを使いこなすにはハードルが高かったということだと思いますが。むしろ携帯電話のようなシンプルなデバイスを中心として、それを中心としてインターネットや家電製品や英気の改札や身分証明や、いろいろな発展がなされていく方向にある。つまりどっかりと真ん中に陣取った中心がすべてをコントロールするようなシステムではなく、沢山の中心があってしかもそれが動き回る、そして動き回ったその場所場所でいろいろなネットワークを作って暫定的なシステムを作り上げてその時々の機能をこなしていく。そんなイメージがいわゆるユビキタスコンピュータのイメージですが。その他にも電子タグのようなものも開発されていますが、いずれにせよ分散型の発想ですよね。
まあ、いずれにせよ宗教の話がしたかった訳ではないのでご理解ください。
Posted by: ykenko1 | June 09, 2004 01:09 PM