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May 06, 2004

人はなぜ携帯電話を手放さないのか?

携帯電話が一般の人々にとって気軽に使える価格(機器、および料金)になったのは、ほんの10年程度前のことだったと思う。しかしこの道具(今や「ケータイ」と書くのが一般的だろう)は、ほとんどの人々にとって、暮らしに欠かせないものとなった。詳細は忘れたが、昨年10月ごろ発表されたアンケート結果で、携帯電話をなくすことは財布をなくすことに匹敵するぐらいショックだ、というものもあった。人はなぜ携帯電話を手放さないのだろうか?

携帯電話は人々の暮らしを変えたという。私たちの今の暮らしは、携帯電話の存在を前提としたものになってきており、それなしの暮らしは考えられないという人も多いのではないだろうか。たとえば携帯電話の普及以降、人々が待ち合わせをするときのやり方は明らかに変わった。時間や場所を厳密に決めなくなったのだ。時間にルーズになったという見方もあるが、一方で柔軟性が高まったという見方もある。

人々の暮らしを大きく変えた道具は携帯電話以前にもあった。いや、およそ人間の作り出した道具はすべて、人間の生活をなんらかの意味で変えてきたといってよい。その意味であらゆる道具は私たちの一部だ。しかし、道具の中でも、特別な位置づけをもって考えられるものがある。自分自身のあり方と深く関係し、それなしには自分が自分でなくなるような不安すら覚えさせるほど重要と思われる道具。携帯電話はそのような道具の1つになったというわけだ。

たとえば、湯沸しポットに対して、人はそこまでの思い入れを抱かない。湯沸しポットは生活を便利にし、それなしの生活はとても不便だ。しかし、湯沸しポットをこわしてしまったとき、人は残念に思い、ショックを受けはするだろうが、ポットのない生活に対して、自分が自分でなくなるような不安を覚えることはない。携帯電話は湯沸しポットとどこがちがうのであろうか。

1つのヒントは、アニメの中にあった。

「人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なのよ。他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めのときに見つめる手、幼かったときの記憶、未来の予感。それだけじゃないわ。あたしの電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの拡がり。それら全てがあたしの一部であり、あたしという意識そのものを生み出し、そして同時に、あたしをある限界に制約し続ける。」
―― 草薙素子 (「攻殻機動隊」、押井守監督、1995年)

自分が自分であるための要素は、自分の中だけにあるのではない。むしろそれらは、自分と深く結びついている周囲のものごとや、それらとの関係の中に多く含まれている。自分と周囲との関係は、「自分」という概念を規定する要素なのだ。したがって、自分とその周囲とをつなぐ道具もまた、自分そのものである。たとえば人は、視力の低下という問題に対し、めがねという道具を発明した。それは常に身に付け、視力の低下による視覚情報の減少を補ってくれる。人にとって、めがねによって視覚の補われた自分こそが「本来の自分」であり、めがねをはずすことには本質的な恐怖を覚える。

同じようなことは、人の能力の補完ではなく、拡張のための道具の場合にもあてはまる。たとえば人は、テレビという道具を発明し、遠くにあるものを近くにあるかのように見ることができるようになった。テレビは人間の情報収集能力を大きく拡大したのだ。これに慣れた人間は、テレビによる情報を、自分の感覚器官によってとらえた情報と同一に扱うようになる。だからテレビのない生活に対して、ひどく不安になったりするのだ。

携帯電話は、他人とのコミュニケーション能力を拡大する。離れたところにいる人と、すぐ隣にいるように話ができる。人と人との距離は、物理的な距離では測れなくなったのだ。これはまさに、自分を自分として意識するために必要な「周囲」の範囲を大きく広がったことを意味する。それはいまや、人々にとって当然のことと受け取られるようになっており、もはやそれがない状態へ戻ることは難しい。携帯電話のない生活への不安とは、1人で無人島に移住するような不安と同じ種類のものなのだろう。

草薙素子のいう「ある限界」が何なのか、正確にはわからない。しかし少なくとも、外部とのつながりを自分の一部として受け入れる者にとって、その喪失は自分の一部を失うものであり、その苦痛が耐えがたいために、逆にそのつながりに縛られるということはあろう。逆に、携帯電話を持たない身となって自由を得た、という類の話を聞くこともある。携帯電話を手放せるかどうかは、自分というものを自分がどのように考えているかによる、ということなのかもしれない。

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Comments

人間をその人が持つ情報ネットワークによって定義するという考え方は、いってみれば「書物は人なり」(You are what you read.)のインターネット版とみることができる。これを敷衍して考えると、「攻殻機動隊」が描いた世界、つまり人とネットが融合した状態は、そこで描写されたように脳とネットを直接コードでつなぐちょっとグロテスクな技術を使わなくとも、もうかなりの程度実現しているといってよいのではないか。

Posted by: 紅茶犬アール | May 07, 2004 01:07 AM

山口さん、こんばんわ、

草薙素子、私も好きです。というか、押井守+士郎正宗の先見性というか、先取りしている感じが、あらためてすごいと感じています。

Posted by: ひでき | May 25, 2004 10:03 PM

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