映画「Big Fish」
どうも、「父親もの」には弱い。立場上身につまされるという要素もあるが、昔から好きだったのだ。別に父に恵まれなかったというわけでもないから、ひょっとして、もって生まれたパターナリズムみたいなものがあるのだろうか。
ここに登場する父親はホラ吹きだ。しかしそれは人に害を与えるたぐいのものではなく、夢をあたえ、楽しくさせるホラだ。周囲でそれをただ1人受け入れられなかったのは実の息子であり、2人は疎遠になっている。死の床についた父のもとを訪れた息子は、果たして父の真意を理解できるだろうか、といったストーリーだ。
うそは、時に事実よりも真実に近い。友達になった巨人、森の奥深くにある不思議な町、巨大な魚。この父親が伝えようとしたのは、「情報」ではなく「思い」、あるいは「叡智」とでもよぶべきものなのだろう。私たちが日常使うことばで、こうしたものを伝えようとすることは少ない。だから息子の気持ちもよくわかる。
今は情報伝達のための道具になりさがっているが、ひょっとすると、ことばはかつて、このような機能をもっていたのかもしれない。たとえば昔の神話などで荒唐無稽な話がよくあるが、あれもそのままの意味ではなく、もっと大事な何かを伝えようという思いがこめられていたとは考えられないだろうか。
とにかく映像の美しい映画だ。なんといったらいいのかわからないが、「子供のころの思い出」といったキーワードが浮かんでくる。思いっきり美化され、誇張され、「たからもの」に昇華された記憶だ。盛り場のまばゆい灯り、夜の森の不気味なざわめき、池の中で自分の近くを巨大な魚が通り過ぎたように感じたときの「ぞわっ」とした感じ。この映画を見ていると、一瞬それらが自分の思い出であったかのような錯覚すら覚える。
自分の父が自分にした話の中で、どれほどこうした「ホラ」があったのか、よくわからない。ほとんど忘れてしまっているからだ。それでも、この映画の中の父親がホラを通して伝えようとした気持ちは、とても共感できる。父性は獲得するものというが、この共感は、自分の記憶の奥底に同じようなものが残っていたからではないかと思う。男女を区別する意図はないが、やはり父親は、夢を与える存在であったほうがいいような気がする。上手にホラを吹ける父親になりたい、と心底思った。
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言戯「ビッグフィッシュを観た!」
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