Curated ConsumptionまたはParotting
「CNET Japan」内の「渡辺聡・情報化社会の航海図」に、面白いことばが紹介されていた(記事はこちら)。TRENDWATCHING.COMという、消費トレンドの潮流を世界中で定点観測してサマライズするサイトの記事に出ていたのだそうだが、「curated consumption」ということばだ。
Curated consumptionとはいったい何か?「目利き追従型消費」とでも訳すか。「何百万人もの消費者が、マーサ・スチュワートのような、ライフスタイルや嗜好に関するリーダーに追随しその意見に従うような消費」といった意味らしい。メディアが多様化するとともに、こうした傾向が強まっているのだという。そういえば、音楽でも本でも、最近はごく少数のメガヒット以外はあまり売れなくなっているという話を聞いた。どうも同じ傾向が社会のあちこちにみられるようだ。平山秀樹さんならここぞと「べき乗の法則」で説明しようとするのだろうが、私としては現象そのものやその帰結より、まずそれが起きる原因が知りたい。何か共通する原因があるのではないかと考えてみたくなるのが人情というものだろう。
朝日新聞2004年8月10日夕刊の文化面コラムに、共通する事項と思われる現象が紹介されていた。ここでとりあげられているのは、メディアの発達によって社会の中に「感情共同体」が出現し、世論が論理でなく感情に大きく左右されるようになるという現象だ。古くは新聞にあおられ戦争への熱狂を生み出す「集団的愛国心」、最近ではいわゆる小泉人気とその失速なども例にあがっている。こういう現象を、「parotting」と呼ぶのだそうだ。「メディアの単純な見方を、人々が意味を理解せずに(オウムのように)繰り返すこと」を意味する。その理由は、「情報量が増えすぎて全部を消化できなくなった結果、人々の判断が情緒的なイメージに左右されるようになっ」たから、ということらしい。
Curated consumptionもparottingも、分野はちがうが誰かの意見に自分の判断を委ねるという点は共通している。この結果、世論の集中が起きるのだ。前者はマーケティング的観点からみているのでなぜ一般消費者がそう行動するのかについてはふれていないが、おそらく後者と同じ理由によるのではないか。あまりにも選択肢が増えたために、自分では選べなくなっているのだ。それで、自分にとって信頼のおける他の人物の好みをまねようとするのだと。
ではなぜこのように行動するのか。経済学的にはminimax戦略あたりで説明するのだろうか。経営学的にはこれぞ「ブランド」の効果、と考えるのだろう。ここまで考えて、そういえばと思い出したのが、「ヒューリスティック」と「ごみ箱モデル」という2つのことばだ。
「ヒューリスティック」は、「直感的な推論」を意味する。行動ファイナンスではおなじみの概念だ。「人間の情報処理能力には限界がある。したがって、問題を厳密に考えすぎるのは必ずしも最適とはいえないので、特に重要な問題でないかぎり、全能力をかけては情報処理を行わない(認知的節約者)。このとき」、「短い時間で妥当な結論に達する」ためにとる「厳密なプロセスを踏んでいない」考え方、とでも説明されようか。(「」内は「行動ファイナンス」より)。情報がたくさんあふれている中で、自分が何を選択すべきかわからないとき、自分が好ましいと思う人、あるいは他のみんながやっていること、買っているものを選択すれば、意思決定のための自分の努力を節約できる。また他人に合わせていれば、他人と比べて望ましくない結果は避けられるから、minimax戦略としても有効だろう。
「ゴミ箱モデル」は、Cohen, March, and Olsen (1972)によって提唱された、あいまいな状況下における意思決定モデルである。意思決定問題において、「問題、解、参加者、選択機会」の諸要素が独立に、かつ偶然に存在するため、ある問題に対する解は「論理的必然性よりも、むしろ一時的な同時性によって結び付けられる」と考えるのだ。(ゴミ箱モデルでは、「やり過ごしによる意思決定」という解が生じうることが知られていて、これはこれで面白いのだが、本論とは関係ないと思うのでふれない。)要するに、将来があいまいな状況下では論理的に意思決定を行うことができず、その場で最も解決に近い問題について、その場で利用可能な解が選ばれる。ここでもし、他の信頼できる人がすでに「解決すべき問題」と「それに対応した解」をセットで示しているとしたら、そちらに従うのが楽だ、ということになるのではないか。(ごみ箱モデルについては「組織と意思決定」の解説がわかりやすい。)
この考え方では、なぜある人なり組織なりが目利きとなるのかはわからないし、その他もろもろ不備だらけだが、少なくとも考えるための第一歩にはなるかもしれない。
参考文献
Cohen, Michael D., James G. Marchm and Johan P. Olsen (1972). "A garbage can model of organizational choice." Administrative Science Quarterly 17, 1-25.
ヨアヒム・ゴールドベルグ、リュディガー・フォン・ニーチュ著、眞壁昭夫他訳「行動ファイナンス:市場の非合理性を解き明かす新しい金融理論」、ダイヤモンド社、2002年。
桑嶋健一・高橋伸夫著、松原望編、「シリーズ意思決定の科学(3):組織と意思決定」、朝倉書店、2001年。
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Comments
トラックバックいただきありがとうございます。mOm
TRENDWATCHING.COM、引き続いて他も読んでいますが面白いです。定点観測が確定しました。
ところで、「curated consumption」ですがもう一つ切り口があって、いわゆるトレンドリーダーに大多数がついていくのではなく、リーダーも多数化多様化して、地上波がケーブルとCS放送に移行したように細分化が起きているという指摘です。
デバイスも含めたメディア産業の環境変化とも合致しているためとてもしっくりと受け止めているモデルです。
そして、根源はおっしゃるとおりヒューリスティックと模倣同一化願望(もしくは、文化コミュニティへの所属感)だと思っています。情報が多すぎるのでみんな実は楽したい。人はみな怠惰。
お粗末でした。
Posted by: 渡辺 as 'SW' | August 11, 2004 10:17 AM
コメントありがとうございます。
CNETいつも読ませていただいています。
なるほど、Curated consumptionには「目利きの大衆化」という側面もあるわけですね。メディアの発達によって身近な人が目利きになれる、blogによって出版の垣根が下がるのと同じことということといってよいでしょうか。あ、でも、そうするとメガヒットへの集中という構図とは必ずしも整合的じゃないですね。あれ?でも、マーサ・スチュワートはどう考えても「ご近所のお手本」じゃないですね。つまり、メガヒット(社会全体にとっての目利き)+ご近所のセミ専門家、という組み合わせが必要なわけか。「専門性のレベル」を縦軸に、「人数」を横軸にとってグラフを描いたら、またしても「べき乗の法則」になるのかしらん。
Posted by: 山口 浩 | August 11, 2004 03:29 PM
山口さん、おはようございます、
あとでゆぅっくりコメントさせていただきたいのですが、私は連歌師の復活かなとか思っています。案外これから元禄時代ではないですが、賢い消費者(smart consumer)というかセンスのよい消費みたいなものがもてはやされるのではないか、と。
http://omokage.g.hatena.ne.jp/
巨視的にはべき乗にぴったりかと思います。
Posted by: ひでき | August 12, 2004 08:19 AM
始めまして、「べき乗の法則とネット信頼通貨を語る夕べ」に参加させていただく予定のさかまたです。サブカル系なのですが、オタクの王様岡田斗司夫氏の「僕たちの洗脳社会」で同じような指摘がされています。この人の分析ってちょっと毒っ気が強いのでが明快かもしれません。
http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/bokusen/senno4.html
Posted by: さかまた | August 13, 2004 04:56 AM
コメントありがとうございます。
名前、勝手ですが直しておきました。
Posted by: 山口 浩 | August 13, 2004 06:54 AM
はじめまして。
拙文をトラックバックさせていただきました。
Curated consumption は自分で選べない消費者を導くという「コンシェルジェ」的役割もそうですが、人間の本質的な「より商品・サービスについて詳しく正しい知識を得たい」や「商品・サービスを選択するまでの時間を短縮したい」などの欲求を満たしているのではないでしょうか?
最近いろんな店舗でも「コンシエルジェ」サービスが採用されてきてますよね。すなわち専門的な知見を得て自分のチョイスを確信したい人々の期待は情報が多様化することによって益々増えてくるのではないでしょうか?
Posted by: manutd04 | August 18, 2004 06:15 PM
皆さま、コメントありがとうございます。
この種のことって、おそらく以前からいろいろなところでいろいろな方が言っておられたのだと思います。専門分野も興味の対象もちがって、ちがう呼び名で呼ばれているのに、よくみると同じようなことだ、なんていう例がもっと他にもたくさんあるでしょう。同じ星の並び方なのに、西洋と東洋ではちがった星座に見立てるのと似ています。「これもそうだ!」「あれもそうだ!」とわかってくるのをみているのも楽しいものです。
Posted by: 山口 浩 | August 19, 2004 04:37 PM