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August 01, 2004

考えること、伝えること

職場で若手の人々に対して話をする機会があった。(「自分が若手でない」という事実に愕然としてもいるのだが、本題ではないのでここでは触れない)調べものをしてレポートにまとめるという作業に際しての注意事項、というえらそうなふれこみのものだが、話しながら、ああこれは自分自身に対する戒めでもあるな、と思った。以下は、自分向けの覚え書きとして書いておく。

私が話したのは、自分が調べたこと、考えたことを他人に伝えようとするとき、調べたり考えたりすること自体と、それを伝えることとは、どちらかがより重要であるということはない、つまり、後者に対して前者と同じくらい注意を払わねばならない、といったようなことだ。

自分の考えを他人に説明したり、自分の考えで他人を説得しようとしたりするとき、その最終目的は、自分の考えをその相手に適切に受け取り、それに納得したり同調したりしてくれるということだ。相手が自分と同等の知識、類似した考えを持つなら、これは比較的容易だろう。しかしそうでない場合、これは傍目からみるよりはるかに難しくなる。異なる考え、知識を持つ人の間では、片方がしごく当然と思うことでも、もう片方がそれを当然と思わないことがよくある。例のベストセラーはまだ読んでいないが、こういうのをいわゆる「バカの壁」というのだろう。

なぜこのようなことが生じるか考えてみると、おそらく、ある考えを理解するときに、自分がすでに持っている知識なり考えなりのセットを使って受け取った情報を加工して理解しているからなのではないか。変な例だが、今Aという人が5という知識、Bという人が3という知識をもっていたとする。ここにある情報、たとえば2という情報が与えられたとすると、Aは5+2=7という理解をし、Bは3+2=5という理解をする。つまり、同じ情報を与えられても、この2人は合意することができない。

この2人が合意できるようにするためには、同じ情報でも、Aには情報を2のままで伝えるが、Bに伝える際にはさらに2を足して4というかたちに加工する必要がある。こうすれば、Aは5+2=7、Bは3+4=7となり、この2人は合意できるというわけだ。ここで言いたいのは、ある考えを人に伝え、それを受け取ってもらうためには、受け取る相手の状況を理解しておき、それに合わせて伝え方を変えていく必要がある、ということだ。

このように考えてくると、自分が伝えたい内容自体について考えたりすることと、それをどうやって相手に伝えるかは、同じぐらい重要なものと考えざるを得ないはずだ。独りよがりの論理で満足していたり、内容さえよければと軽くみていると、望む結果は得られない。

自分が伝えたいと思っていることがらについては、自分は一般的な他人よりも多くを知り、深く考えている立場にあることが多い。そのこと自体は立派なことだが、それを他人に伝える際には、相手のおかれた状況、立場などをよく考えることが必要だ。自分が知っていることについて相手が知らないということは、自分が相手に対して優位だということでは必ずしもない。特に相手が専門家の場合、自分の伝えたい当の項目については自分が詳しいかもしれないが、相手はその周辺の他の部分で自分が知らないことを知っており、自分が考えてもいないことを考えている。自分の意見に興味をもってくれない場合、ちがった意見を持っている場合は、そうした理由がありうることを忘れてはならない。

事例や引用は、一般的には読者・聞き手の理解を助けるためのものだが、けっこう注意が必要だと思う。たとえば、政治において聴衆の共感を呼ぶためにはそれなりの技術が必要だ、といった主張があるとしても、その活用例として、ナチス・ドイツのゲッペルス宣伝相を持ち出せば、それがいかに効果的な事例であったとしても、読者・聞き手はまともに受け取ってはくれない。これは極端な例だが、引き合いに出そうとするものが、一般の人々にとって本当に説得力のあるものかどうかは、真剣に考えるべきだ。同じことをいうのに、他の有効な例があるかもしれない。

書いたり話したりする際、スペースや時間に制約のあるケースがある。こういうとき、自分が最も伝えたいことばかりをとりあげてしまいそうだが、それによって相手が理解できなかったり反発したりすればむしろ逆効果だ。どうすれば相手が最も理解しやすいかを考えよう。場合によっては、自分が考えたさまざまなことの大半を切り捨てなければならないかもしれない。それでも、自分が意図したメッセージなり情報なりが適切に相手に伝わるならば、それでよしとする必要がある。後で補足する機会に期待しないようにしよう。その補足が全員に届くとは限らない。まさに「一期一会」というわけだ。

できれば、相手が自分で気づいたようなかたちで説得できればよいのだろう。1から100まで「教えてさしあげる」のではなく、相手が自分で考え、気づいたと思うようにできれば、説得としては大成功だ(いわゆるコーチングの技法はこれに近いのではないか)。そこまでしても、相手は、自分の思ったとおりには受け取らないかもしれないし、逆の考え方に進むかもしれない。それでも望みを捨てたり相手を感情的に非難したりしないようにしよう。そもそも自分の考えが唯一絶対とは限らないのだ。

・・・言うは易く行うは難しというが、これもまさにそうだ。自分ではこのレベルには到底達していない。書いていて、暗い気分になってしまった。何かを表現するということは、こういう「大それた」感を経験し続けていくということなのだろう。日暮れて道遠し、といったところか。

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Comments

トラックバックありがとうございました。

確かに納得です。痛み入ります。

「特に相手が専門家の場合、自分の伝えたい当の項目については自分が詳しいかもしれないが、相手はその周辺の他の部分で自分が知らないことを知っており、自分が考えてもいないことを考えている。自分の意見に興味をもってくれない場合、ちがった意見を持っている場合は、そうした理由がありうることを忘れてはならない。」

Posted by: キルゴア中佐 | August 01, 2004 10:54 AM

コメントありがとうございます。
これは自分向けの戒めなので、「痛み入」っていただく必要はないとは思いますが、ご賛同いただければうれしく思います。相手に対して「なぜわかってくれないのだろう」と思うとき、「バカの壁」は、相手だけではなく、自分にもあるかもしれない、と思うことは、コミュニケーション手段の発達した現代において特に重要であるように思っています。

ところで、前から気になっていたのですが、なぜ「中佐」なんですか?

Posted by: 山口 浩 | August 02, 2004 09:38 AM

山口さんこんばんわ!先ほどはコメント有難うございました。
記事拝見させて頂きました。「大賛同」です!
ご紹介いただき本当に有難うございました。
後日、私も関連する記事を書いて、TBさせて頂こうと思います!

Posted by: 珠丸 | August 03, 2004 11:30 PM

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