一般人の、一般人による、一般人のための「正義」
西宮冷蔵という会社をご記憶だろうか。2002年にあの雪印の食肉偽装事件を告発した企業だ。国民の税金を不正に受け取った企業を告発したのだから、勇気ある行動で社会に貢献したとほめられてしかるべきだと思うのが一般的な考え方ではないかと思っていた。しかし実際はそうなっていない。西宮冷蔵は、取引先から見放され、自主廃業に追い込まれてしまった。その後カンパなどにより、紆余曲折の後に再建された(少し前(6月ごろか)にテレビで特集番組が放映されたと記憶している)が、まだ前途多難のようだ。
事件後、顧客(つまり、商品の冷蔵保管を依頼する企業だ)は次第に減少し、やがていなくなった。真相はよく知らないが、業界団体の圧力を指摘する向きもある。西宮冷蔵は「業界のオキテ」を破ったのだ、それが正義だろうが何だろうが、報いを受けるのは当然だ、ということなのだろうか。行政も特に動こうとはしていない。逆に、倉庫業法違反(虚偽の在庫証明を出した)で営業停止処分にしたり、営業再開に際して借入金を理由に許可を渋ったりと、傍目にはいじわるとしか思えない対応が目立つ。深読みすれば、よけいなことをしやがって、という不興を買ったのかもしれない。
日本でも公益通報者保護法の制定が予定されているが、その内容をみれば、企業への罰則規定がないことや、法を無視して企業が告発者を解雇したりした場合の救済には民事訴訟が必要であるなど、保護は弱い。今回のように、従業員からの告発でなく、取引関係先の場合はまったく対象外だ。もちろん法で規制できることには限界がある。実際の妨害やいやがらせは、規制に引っかからないよう巧妙に仕組まれているだろう。ポイントは企業なり政府なりが、公益通報者というものをどう考えているかだ。企業の社会的責任論の前提としてガバナンスが重要と論じた木村剛氏のblog(こちら)は、企業側の「善意」を前提としたものだが、そもそも企業側が「善意」である保証などない。内部告発者の保護は、企業がその社会的責任を果たそうと本気で考えているなら当然のように行わねばならないものだと思うが、現状はそこからあまりにも遠い。こうした事例をみていると、一般人である私たちにはとてもこわくてふみきれないではないか。
西宮冷蔵に関連して、「天国堂本舗」に、次のような説得力のある主張があったので、少し長いが引用してみる。
内部であれ外部であれ不正の告発者は正義の代理人とならなければ生きて行けないのだろうか、と思う。不正の告発者=正義の人とみなす発想が、実は不正はだめという告発行為を普通の暮らしの世界から遠ざけることになってはいないかと思うのだ。不正の告発者が、その後に「正義の世界」にしか生きて行けなくなるとしたら、告発の勇気は、さらに一層重苦しい決断に支えられなくては成り立たなくなるだろう。不正の告発者が女たらしだったり、酒飲みだったりしてもいいと思うのだが。聖人君子ではない、普通の人間が、少しの勇気があれば不正の告発をできる社会であってほしいと思う。人の口に戸は立てられない状況から、不正の告発までのハードルが低いほうが風通しのいい社会のように思う。
正義は「疾風のように現れて」くれる「誰か」に任せるのではなく、一部のエキセントリックな人々の暇つぶしのためでもなく、現場で日々さまざまなことがらに遭遇する私たち自身が、日常の行動として実践していくべきもののはずだ。それができる企業は尊敬され、売上も上がる。それができない企業は信頼を失い、衰退していく。そういう状況が当たり前であってほしいというのは、青臭い議論だろうか。大それた望みだろうか。
政府も企業も、(少なくとも建前上は)世論には弱い。影響力のある人が後押ししている場合はなおさらだ。もし世論が西宮冷蔵を本気で支持し、西宮冷蔵を押しつぶそうとする勢力にノーをつきつければ、状況はまったく変わってくるかもしれない。たとえば、西宮冷蔵の顧客のうち、雪印は10%程度のシェアを占めているだけだったという。他の顧客はどこに行ったのだろう。西宮冷蔵との契約を打ち切った企業名を、私は知りたい。なぜ打ち切ったのかを聞きたい。行政に対しても、なぜ冷たい対応をするのか聞きたい。責任者の氏名も知りたい。そうした情報が社会で共有されるようになったらどうだろうか。プライバシーだと主張する向きもあろうが、こういう情報には公益性があると思う。もちろんparottingを警戒する必要はあるだろう。楽観的に過ぎるかもしれないが、それも含めて公開の場で言論を重ねていけばよいのではないかと思う。
・・・なんだか思いっきり熱い論調になってしまったが、こぶしをふりかざして「正義」と叫びたいのではない。一般人が日常の感覚で「正義」と思う行動を気負いなく実行できる世の中になったらいいのに、と思うだけだ。でもそれも、どこかのスーパーヒーローの活躍に期待してはいけない。今一番問われているのは、私たち一般人の意識と、日々の行動なのだと思う。そのために、新たな「メディア」となりつつあるblog、つまり一般人であるbloggerたちのゆるやかな連帯は、何らかの役割を果たすことはできないだろうか。
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Comments
山口さんの意見に賛同します。
しかし、日本人って個人では臆病な人多いですよねぇ。
ひとそれぞれですから、仕方ありませんが、
みんなが変な方向にむかうと・・。
前回の戦争で完膚なきまで負けたのがよく
わかります。今の意識レベルではプロテスタントに
敵うわけがありません。いまだ、生口(国の奴(ドレイ))
ですからね。市民レベルになるのはいつの事やら
Posted by: キルゴア中佐 | August 27, 2004 11:26 AM
コメントありがとうございます。
なかなか難しい問題ですよね。すぐにどうなるというものでもないでしょうが、少しでもいい方向に向かわないかな、と。私は、この問題は日本人だけの問題ではないと思います。アメリカにだって、似たような問題は絶対あると思います。程度の差はあるでしょうが。人間は弱いものですからね。少なくとも、よりよい方向をめざすなら、制度を工夫したらどうか、というのが趣旨です。
ちなみにですが、「プロテスタント」というと国ではなく宗教を指しますので、誤解を招きやすいと思いますよ(日本人のプロテスタントは?アメリカ人の仏教徒は?)。
Posted by: 山口 浩 | August 27, 2004 12:16 PM