親孝行 したいときには職はなし
厚生労働省は、定職に就かないフリーターのほか、働く意欲を持てない若者を教育し、就業定着まで支援する総合雇用対策を来年度から始める(2004年8月22日付日本経済新聞)。
記事によると、従来の日本の若年者向け雇用対策は働く意欲があっても希望の職に就けない層の支援が中心であったが、現在は職探しすらしない若者が64万人もいるなど働く意欲の低下が目立つことから、この層に対する政策を打ち出すものだという。
言いたいことはよくわかるのだが、どうしても釈然としない。
現在厚生労働省が行っている若者の就業支援策は、このようなものだ。教育段階での就業意欲の喚起(いわば「刷り込み」か)と、若者向けの労働市場の整備、職探しのための情報インフラ整備、とでも整理できようか。これに加えて、今度は社会人としての基礎訓練を入れたり、中学生から社会との接点を意識させる教育を行ったりする。
しごくまっとうな対策にも見える。「まったく今どきの若いやつらは」と言いたくなる連中も確かにいる。しかし一方で炎天下の夏から冬の真っ只中までリクルートスーツを着こんで走り回っている人々を見かけるではないか。朝職安の前に並んでいる若者たちを見たこともあったではないか。やはり簡単に納得してしまってはいけない気がする。
働く意欲がないと言われるが、当の若者たちに言わせれば「働きたくても職がないじゃん」ということだろう。「甘ったれるな。かっこよくて楽で給料がいい仕事なんてそうそうあるわけないだろう」という反論もあろうが、ちょっと待ってほしい。そういう職に就いている人々が、日本には山ほどいる。世代間論争をあおるつもりはないのだが、やはりここははっきり認識しておくべきだろう。それは中高年層だ。反論する前に、落ち着いて少し考えてもらいたい。今の職場を離れて新たに就職をしなければならない状況になったとして、どんな職に就けるかを。今のポジションは、自分の力だけで獲得されたものなのか。先に就職したということ以外に、彼らに優越するものが本当にあるのか。
ここで指しているのは、いわゆる団塊の世代、およびその下に続く世代だ。この世代は、一部リストラに遭った方々もいるだろうが、大勢をみれば雇用と給与水準はほぼ守られたといってよい。特にこのうちそろそろ定年退職を迎える団塊の世代は、いわば「逃げ切った世代」といっていい。このあおりを受けたのが彼らの子供にほぼ相当する若年層だ。そもそも雇用機会すら奪われ、将来のキャリアアップのチャンスもない状態におかれている。
中高年でいわゆる「リストラ」された人々は、やはり職安へ行ったり、民間の就職支援サービスを利用したりする。そこで彼らは、自分たちがいかに「守られた」存在であったかを思い知らされることになる。しかしそれは、「職がない」ということでは必ずしもない。選びさえしなければ、求職自体はある。「ない」のは、「自分にふさわしい職」、つまり企業で責任ある立場にあった自分にふさわしい権限と給与のポストなのだ。しかしこれが、企業側からみれば、「前職にこだわって使いづらい」との評価につながってしまう。このあたりの期待と現実とのミスマッチは、かねてから指摘されている。これは、おそらく若年者がなかなか職に就こうとしない理由とかなりの部分共通しているはずだ。他人事ではないはずなのだ。
期待と現実のミスマッチ状況は両者にみられる。ちがうのは、親の世代はすでに職があるが、子の世代はまだ職がない、ということだ。親の世代の雇用を守るために、子の世代の就業機会が失われている。このことがいいことなのか悪いことなのかはただちにはいえないが、少なくともはっきり認識しておくべきだと思う。そして少なくとも、企業の立場からみれば、あるいは社会全体からみれば、少なくとも一部のケースでは、中高年層の意欲と能力のある若年層に就業機会を「譲る」ほうが好ましい、ということも認めざるを得ないと思う。このままでは、子の世代はなかなか職に就けず、「親孝行、したいときには職はなし」ということになってしまう。
もちろん中高年層とて、現在の恵まれた状況に慣れており、いきなり現在のような厳しい状況の雇用市場に投げ込まれても泳ぎきることはできないかもしれない。中高年向けには「労働市場の整備」、「職探しのための情報インフラ整備」なども行われているだろう。しかしこれだけでは充分ではない。中高年者におそらく必要なのは、これまで自分が築いたと信じてきた会社の庇護から離れて再び自分の力で職に就こうとする「意欲の喚起」や、新たな環境で謙虚に学びなおすための「社会人としての基礎訓練」なのではないか。厚生労働省の政策は、もっと中高年層に向かわなければならないのかもしれない。
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