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August 08, 2004

討論におけるルールの必要性について

人が討論しているのを聞いていると、いらいらすることがよくある。いいかげんな主張に怒ったり、モデレータのまずい進行に失望したり、「自分にも言わせろ」的な自己顕示欲に近い感情をもったり、いろいろだ。しかしよく考えてみると、そればかりではない。討論の際の「ルール」に納得がいかないことが多いのだ。

以下、参加者が2人、モデレータが1人の討論会をイメージされたい。テレビなどでよくみる討論会は、司会者がテーマを提供し、参加者が意見を戦わせる、といったものだ。最初に話をふられた参加者がしゃべると、それに反対する人が突っ込み、さらにそれに反論し、といった具合に議論は進行していく。その間モデレータは議論の流れを会の目的に沿うよう誘導し、制限時間に間に合うよう話題を変えたり議論を収めたり打ち切ったりもする。先日出席する機会があった討論会もおおむね似たような感じだった。

このスタイルでは、基本的に参加者は何をしゃべってもよい。とすると、自分にとって都合の悪いことに対しては話題をそらしたり無視したりして正面から答えず、相手にとって都合の悪いことを取り上げて追い詰めていくのが有効な戦略となる。それを双方の参加者がやるとどうなるか。まるで議論がかみ合わなくなるのだ。質問すれば答えずに逆質問し、非難すればお前だってと切り返し、問題点があると指摘すれば他にもあると問題をすりかえる。どのテーマについても、充分に議論されることはない。核心にふれそうになると話題は転換され、それがそのまま放置されてしまうからだ。

また、両者がしゃべる時間に制限がないため、長々としゃべったほうが明らかに有利だ。議論の質や説得力でなく、しゃべっている時間の長いほうが優勢であるかのような印象を与えることができる。同時にしゃべることが許されているため、声が重なってしまうことがしばしばあるが、そういうときは声の大きいほう、相手のいうことを聞かないほうが有利となる。そうこうしているうちに、議論の目的がなんだったのか、そもそも何が問題なのかすら、わからなくなってしまう。当事者は「無事切り抜けた」だの「わが方が優勢だった」だの思うのだろうが、聞いているほうは煙に巻かれた印象のまま終わるはめになる。

つまり問題は、①テーマが討論の途中で変質してしまうこと、②議論が充分なされる前に次の話題に移ってしまうこと、③したがって議論の決着はつかないこと、だ。この状態は、討論会の参加者にとってはありがたい。お互いに「自分が優勢」と主張できるからだ。白黒つけようとして返り討ちにあえば逆効果だから、今のままのほうが安全である。したがって、双方にとって討論のやり方を変えるインセンティブは働かない。いわゆるナッシュ均衡に陥るわけだ。なんとか他にうまいやり方はないのだろうか。

いや、ある。最近は少なからぬ人が経験しているだろうディベートの方式を取り入れたらどうだろう。つまり、こんな具合だ(以下の手順はこのサイトからとった。詳細についてはそちらを参照されたい)。

まずテーマが与えられる。テーマは「○○問題について」といったあいまいなものではなく、「○○は××すべきだ」といった明確なかたちで与えられ、それについて肯定側と否定側に分かれる。そもそも、あらかじめ対立点をさがしてテーマとするのだ。参加者は、このテーマ以外のことを話すのは禁じられる。これにより、議論が脱線することは防げる。

討論は、典型的なディベートの形式にしたがって、次のように進行する(これは一例だ。もっと長いバージョンもある)。参加するのは肯定側論者、否定側論者、それにジャッジだ。各段階には時間制限がある。片方が長々としゃべり続けて時間切れに持ち込むことはできない。
 
①肯定側の立論
自説を論理づけて説明し、これから行うディベートの論点と論拠を明確にする。以後の討論で取り上げる論点はすべてここに含まれていなければならない。つまり、討論に入ってからの「隠し玉」はルール違反となる。これで論点のすりかえの大半は防げる。

②否定側からの尋問
肯定側の立論を理解し、相手の立論の弱いところ、自分に有利なところなど、反駁のための材料をさがす。自分の主張をするのではなく、相手に対して尋問をするための時間である。質問は短い答えで答えられるようにしないと、回答で長々と時間をとられてしまう。

③否定側の立論
次に否定側が立論を行う。肯定側に対する反論があるときは、ここに含まれなければならない。ディベート共通のルールとして、反論しなかったものは、相手の主張を認めたことになる。

④肯定側からの尋問
否定側の立論に対して、肯定側からの尋問を行う。

⑤作戦タイム
ここで作戦タイムをとり、互いに相手をどう攻めるか、どう守るかを考える。ディベートはチーム対チームで行うことが多いので、その場合は仲間で協議するわけだが、1人でやる場合でも少し時間をとったほうがいい。

⑥否定側第一反駁
否定側が肯定側の立案に対して、その矛盾を指摘したり、別の重要な論拠を持ち出したり、情報や証拠の不足を指摘したり、論点の重要性について他の考え方を主張したりする。

⑦作戦タイム

⑧肯定側第一反駁
肯定側が否定側の立案に対して反駁を行う。

⑨作戦タイム

⑩否定側第二反駁

⑪作戦タイム

⑫肯定側第二反駁

最後にジャッジが、どちらの主張が説得的であったかを判定する。討論会であれば、司会者ないし聴衆にジャッジさせてもいいかもしれないし、明確に勝ち負けをつけることが不適切ならば、あえて判定しないという考え方もありうるだろう。たとえ判定をしなかったとしても、このようにすれば、両者がテーマについてどのような論点をもっているか、それがどのように対立しているのか、どちらが説得力をもっているのかが、聴衆にとってこれまでよりはっきりみえるようになるのではないか。

多くの討論会が今までこうした形式にしたがってこなかったのは、ディベートの形式に慣れていないこともあるのだろうが、有名な論者をこのような形式で縛ることを失礼と考える風潮があったのだろう。しかし、社会にとって重要な問題を論じるならば、当事者だけでなく、見ている人にもそれをわかりやすく見せようとする努力が必要だ。そのために一定のルールを設けることが有効ならば、論者も甘んじて受け入れてくれないだろうか。

討論をこのようなディベート形式で行うとすると、最も重要なのは司会者だろう。テーマを設定し、進行を管理し、論点を把握してそれに対する両者の主張と反駁を把握する。そこまですれば、聴衆はそのテーマについて、かなりの部分を理解することができるだろう。今ある多くの討論会での最大の問題点は、司会者がそうした役割を果たせていないことなのかもしれない。「高名な論者」にご意見を伺う、というのならともかく、異なる意見の人々を集めて討論会をするのであれば、より流れを「構築」していく努力が必要なのではないだろうか。

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Comments

なるほどね。

Posted by: 阿片 | July 12, 2011 07:32 PM

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