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October 20, 2004

水俣病訴訟:力ある者の責任

10月15日、いわゆる水俣病関西訴訟の最高裁判決が出た。熊本県と鹿児島県の不知火海沿岸から関西に移住した水俣病の未認定患者45人が国と熊本県に損害賠償を求めたもので、判決では対応を怠った国と県の責任を認定し、37人について総額7,150万円の賠償を命じた。(判決要旨はこちら)。

原告勝訴だ。政府の責任を認める判決が確定したという意義はもちろん大きい。しかし、よかったと喜んでばかりはいられない。

水俣病について、政府は1995年に、法的責任を認めないまま政治決着(チッソなど加害企業が未認定患者に一時金を支払うが、政府の責任は認めない)を図り、大半の患者はこれに応じた。この裁判の原告だけがこれを拒否し裁判を継続したものだ。

もともと、業務上責任を負うべき者は高い水準の注意義務と結果回避努力の義務を負う。一般生活で人にケガをさせた場合の過失傷害よりも、車を運転していて歩行者にケガをさせた場合の業務上過失傷害のほうが責任が重いのは、そのためだ。民法715条の使用者責任は、ほぼ無過失責任に近く、要するに結果責任となっている。水俣病のケースは、国の権力行使(というか、不行使)についてのものだから、国家賠償法の問題となる。(この法律は、私見だが、公務員個人の行為に対して国が責任を負うべきかどうかという観点から書かれており、国の権力不行使そのものが違法となる場合をあまり想定していないようにみえるが、本題から外れるのでひとまず措く。)

国・自治体側からは、「予測しえなかった」という反論があった。国家賠償法第1条に基づく政府の賠償責任は、「故意または過失」となっており、通常の公務員レベルの注意義務を前提とする、ということらしい(甲南大学法科大学員のサイトに解説文書がある)。これだと具体的な基準はわからないが、1ついえるのは、公務員の職務に関する注意義務は一般の場合よりもはるかに高い水準であろうということだ。最高裁判決は、政府が払うべき注意を払っていなかったと判断した。

判決は法律に基づいたものだが、そのほかにも、「予測しえなかった」を言い訳に使うべきではない理由がある。政府はさまざまな政策手段を発動し、民間企業に影響を与える力をもっている、ということだ。その力は、国民全体の福祉を向上させるために許されている。「政府は何のためにあるのか」という観点だ。したがって、政府は悪いことをしたから責任を負うというだけではすまない。悪い結果が起きればそれを解消する責任を負うのだ。この考え方からすれば、たとえそれが事前に予測できなかったとしても、対処する責任を負うべきものであれば、そのことは対処する責任を逃れる言い訳にはならない。力ある者には、その分責任があるのだ。

後者は、法的な責任というよりも、政治的な責任に属するのだろう。官僚ではなく、政治家の責任だという人もいるかもしれないが、ここで法律論やら政治学講義やら責任者探しやらをするのが目的ではない。国民にとっては、政治家も官僚も同じ「政府」だ。国民を守るために政府が何をすべきか、という観点からすれば、これは「共同正犯」だといっても過言ではない。どっちが責任を、などと議論するひまがあったら事態打開のために努力すべきだ。

今回の裁判所の判断がどれほど「踏み込んだ」ものなのかはよくわからないが、大方の人はとりあえず歓迎しているようにみえる。ただし喜んでばかりもいられない。「なぜこんなに時間がかかったのか」という問題があるからだ。

国は今回の裁判に負けはしたが、水俣病問題を大局的にみれば、「勝っている」。時間の力だ。水俣病の公式発見から48年たった。今回賠償を認められたのは37人だが、すでに1万人以上は1995年の政治決着を受け入れた。待ちきれなかったからだ。患者の大半は高齢者で、今後どんどん数が減っていくだろう。発見後すぐに対策をとらなかった怠慢、認定基準の不備、責任の不存在を主張して引き伸ばした裁判、責任をあいまいにしたままの政治決着。これらすべての「手法」を総合的に「活用」した結果、国は「逃げ切った」。おそらく、本来負うべき責任のかなりの部分を逃れたのだ。

政府は、個々の対応はその場その場でとりうる最善のものだったと主張するのだろう(1995年の政治決着当時、村山首相がそういう趣旨のことを言ったそうだ)。一万歩譲ってその弁明を認めるならば、問題は「大局」観の不在だ。高校の生物で、カエルを解剖して神経筋を取り出し、刺激を与えて収縮させる、という実験をやったことがある。神経筋は、脳につながっていなくとも、適切な刺激を与えれば収縮する。「その場その場」の対応とは、この神経筋の収縮のようなものではないか。神経筋を意識的にコントロールできるかどうか知らないので筋肉一般に話を移すが、カエルが生きていれば、筋肉を収縮させるべきかどうかは、筋肉自体ではなく、体全体を統率する脳が決定する。「説明責任」を負うのは脳だ。脳は「いや筋肉が勝手に判断して」などと釈明はしない。つまり村山首相の発言は、「この国には脳がありません」と脳自らが認めたことに等しい。昔のことはおくとして、これからはそうでないように願いたい。

※参考

国家賠償法第一条
 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。
○2 前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。

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