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November 04, 2004

「改革」を考える:空を見るか、地を見るか

理想を追うか、現実を見るか。

なんとも大それた選択肢だが、なにかものごとを決めたり変えたりしようとするとき、いつも問題になるポイントだ。どんなテーマにも応用でき、また誰にでも語れるがゆえに、なかなか合意しにくい。

以下はある文脈で考えた思いつきに別の枝葉をつけたものだが、忘れてしまうのも惜しいので、とりあえず書いておく。

日本でもここ数年、これに類する問題が大きな関心を呼んできた。道路公団改革、郵政改革。銀行業界もプロ野球業界も。政治も国防も。バブル崩壊後さまざまな分野で行われてきた一連の「構造改革」において、理想を追うべきか現実をふまえたものにするかは常に議論の焦点だった。

その過程でよく聞くのは、○○がなされないからこの改革はだめだ、0点だ、いやマイナス50点だ、といった類の議論だ。道路公団改革でも、道路建設を止められなかったから改革は意味がなかったといわれる。郵政改革にも同じような話がある。要は、きちんとした改革ができないなら、はじめから改革などしないほうがいい、という議論だ。本当にそうなのだろうか。

確かに、中途半端な改革をすることによって、かえって望ましくない現状を固定してしまう、ということはありうる。例に出して申し訳ないが、たとえば省庁改革で厚生省と労働省が1つになって厚生労働省になっても、それが公務員の数を減らしたわけでもなく権限を減らしたわけでもない(多少は減ったのかもしれないが、全体として大きく変わったという印象はない)。減ったのは大臣ポストぐらいか。だから意味がなかった、という議論がありうるし、実際聞いた。一方、関係した人たちは、当然、意味があったと主張するだろう。

当否はさておき、こういう議論をするとき、何が望ましい姿なのかについて、必ずしも社会的な合意があったわけではないということをまず理解しておきたい。別の例で、たとえば道路公団の改革において、「望ましい状態」と考えられたものはたくさんある。「無駄な道路が作られないこと」、「道路に金をかけすぎないようにすること」、「道路公団の借金のつけを国民に回されないようにすること」、「道路公団のファミリー企業による金の無駄遣いをやめさせること」、「道路公団の総裁や幹部をやめさせること」、「道路公団の職員をたくさんやめさせること」、「必要な道路はきちんと作ること」、…。支持者の多少はあろうが、いろいろな人がいろいろなことをいっている。中には矛盾するものも含まれる。だから自分の主張に沿わない改革は意味がない、という意見になってしまうわけだ。矛盾する意見の人が合意することは事実上なかなか難しいことが多い。だから改革を評価しない議論が出てくることは避けられないのだが、少なくとも、そうした議論を目にしたとき、論者によって立脚する立場がちがうことを意識しておくことで、構図がよくみえるようになると思う。

仮に「理想」が共有されていたとしても、やはり問題はある。理想を「どの程度」まで追求すべきか、という点だ。途中まで登ればよしとするか、あくまで頂上をめざすのか。この点について、1つ重要なポイントがある。仮に徹底した改革が望ましいとしても、徹底した改革をしようとしていたら、改革そのものは可能だったかどうか、ということだ。民主主義的なシステムは、重要な課題を誰か権威者が1人で決定できるようには作られていない。構成員全員ではないにせよ、なんらかの合意が必要となる。しかし改革によって既存の組織やシステムを変えようという場合、「抵抗勢力」は既存の有力な勢力である可能性が高い。だからそもそも改革を決定しようとしても、「抵抗勢力」がまったく賛成できない案では、そもそも実現できないことになってしまう。また、実際に機能している組織のあり方を変えようとするとき、組織の全員を取り替えられるわけではない。トップや幹部層を替えるにしても、むしろ既存の組織の大半はそのまま使わなければならないことが多い。それらの人々がついていけない改革では、実現は事実上難しい。つまり、改革を実現するためには、現実味のある改革でなければならないのではないか。

これに似た議論がある。有名な例なので知っている方も多いと思う。いろいろなバリエーションがあるが、都市設計において社会福祉や都市施設などをどうするか、という話で考えてみよう。2つのやり方がある。

①理想都市型
社会福祉や都市施設などが完璧に整った「理想の都市」を作る
しかしコストがかかるのでその都市に受け入れられる人数は限られる
その都市に住めなかった人は、都市の周辺にスラムを作って貧しく暮らすが、飢えて死ぬ人もいる

②現実型
社会福祉や都市施設などは不充分な水準で、誰もが不満を抱いている
ただし1人あたりのコストが安くすむので、とりあえず最低限の行政サービスを全員に提供できる
したがって、とりあえず飢えて死ぬ人はいない

このどちらがいいかも、政府がめざすべき目的によって異なる。上記の例では大半の人は②を選ぶだろう。もちろんそれはこの問題の性質上死者が少ないことがより重要な価値だからだが、そうではない例でも、②のほうが望ましいケースは多い。

ドラッグや売春への対応も似た要素がある。日本ではいずれも違法だが、一部の国では、一部のドラッグや売春行為が合法化されている。これらの行為をむやみに禁止しても実現できなければ規制の意味がない、という理由で、一定の管理の下に許すわけだろう。誰も守らない禁止規定をおくことは、モラル全体の低下を招く。車がめったに通らない道路に横断歩道と信号を設置しても、誰も守らないだろう。それは単に効果がないだけではなく、交通ルール全体への信頼を低下させることにつながりかねないというデメリットもあるということだ。

もう1つ、現実的な対応のいいところは、地下に隠れていたものを地上に引っ張り出す効果を持つことだ。禁止してしまえば、それらは地下にもぐり、監視がまったくきかなくなるし、闇の勢力が力を伸ばすきっかけを作る。アメリカで一時期施行された禁酒法を想起されたい。そういう日陰の場所ができれば、そこで働く人たち(おそらくは社会的弱者)がひどい搾取にあってしまうかもしれない。「地上」に上げ、光をあてることで、なんらかの自浄作用が働く可能性に期待するということだ。

そこから転じて考えてみる。

たとえば今、道路公団が作ろうとする道路について、コスト削減が重要な話題になった。民営化するための一連のプロセスを通じて、彼らはコストを下げる努力なるものにおそらく初めて真剣に取り組んだ。批判する世論がまとまって押し寄せるようなことが起きれば組織の存亡にもかかわる事態が発生することも学んだ。今回の改革そのものが「無駄な道路を作らない」ために充分なものだったかどうかは疑問の余地もあるかもしれないが、それなりに学ぶこともあったはずだ。残りは将来の課題と考えるべきではないか。

おそらく、多くの改革において、いっぺんで全部すませてしまおうとするのは、少々高望みなのだ。われわれの社会は、そうした「一撃で抜本的な解決」を成し遂げるほど卓越した能力を持っていないし、それを許容するほど器の大きい存在でもない。その後長期間にわたって続いていくプロセスも含めて「改革」と呼ぶべきなのかもしれない。

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