生命の重さと自分探し
人はいろいろな理由で死ぬ。病気あり、老衰あり、事故あり、災害あり。しかし他人に殺されるケースはまれだ。今回イラクで殺害された日本人の方は、その中でも最も特異な場合に属するだろう。政府の対応が万全だったかどうかは別として、いわゆる「自己責任」であることについては、おそらくご本人も認めるのではないかと思う。これは別に非難しているのではないので念のため。
この方のご冥福を心よりお祈りする。その上で、その死を無駄にしないために、自分なりに少し考えてみた。
(以下は、政治や国際情勢などに関する文章ではない。あらかじめことわっておく)
この人は、いわゆる「自分探し」の旅をしていた、と報道されていた。今の自分は「ほんとうの自分」ではない。自分が生きている意味がわからない。だからさまざまな旅をしながらそれを探すというわけだ。その過程で、今イラクで何が起きているかをどうしても自分の目で確かめたかったということらしい。書くのが憚られるほどおぞましい話だが、彼はまさにこれを実現した。イラクで何が起きているかを、身をもって確かめたのだ。
ひょっとしたら、イラクで彼は、自分のやるべきこと、ほんとうの自分を見つけたかもしれない。しかしそれは、命を絶たれるまさにその瞬間だった。報道されたビデオの中で、彼は「また日本に戻りたい」と語っていた。もし生きる意味を見つけていたのなら、さぞかし生き続けたかっただろう。なんと皮肉なことか。
あるいは、イラクでは自分のやるべきことは見つけられなかったかもしれない。ほんとうの自分はここにはないと思ったかもしれない。たとえそうでも、彼は生き続けたいと思っただろう。ほんとうの自分でなくとも。生きる意味などいらない。生きること自体に意味がある。そう思ったのではないか。
自分は見たことがないが、最近、ネットには自殺サイトなどというものがあって、いっしょに自殺する仲間を募集したりしているという。こういうところに出入りする人は、この一連のニュースをどのように見ただろうか。よもや死ねてうらやましいなどとは思わないだろう。死に方が問題なのか。では、たくさんの子供を殺して最近死刑になった犯罪者のように、電気椅子で殺されるのはどうか。さしたる苦しみもなく死ねるならよいと思うだろうか(この犯罪者は死刑を望んでいたようだが、自分から死のうとはしなかったようだ。なぜだろう)。
理不尽に他人から命を絶たれる状況になって、「死ねてラッキー」などと思う人はいないのではないかと思う。悩んでいる人にこんなことを書いても心に響かないかもしれないが、もし死にたいなどと考えるなら、その前にイラクで望まない死を遂げたこの人のことを考えてほしい。テロリストに捕らえられ、首にナイフをつきつけられても「よかった。これで死ねる」と思えるか。もし少しでもいやだと思うなら、自殺は思いとどまってほしい。まだ生きること自体に意味を見出しうるからだ。
途方もない「失敗」のつけを自分で払ったこの人の「戻りたい」ということばを忘れないでいよう。
生命は重い。「自分探し」などと引き換えてはいけない。
生きる意味を今見つける必要はない。年老いて死ぬその瞬間に「あった」と思えればいいではないか。
人は簡単に死ねる。生きていたくても数十年すれば死ぬ。今でなくていい。自殺はやめよう。
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Comments
物凄く心に響きました。重いナタでザックリやられた様な気分です。
今回の事件に限った事ではないのですが「理不尽な死」に対しての「何故?」という疑問をもっとみんなが持ってくれれば良いのにと思いました。あと「生きる意味」を問うたり「自分探し」をするより、傍目には馬鹿馬鹿しくてもいいから「生きている実感」を探した方が、より的確な答えを見つけられるんじゃないかと。とか考えました。
Posted by: さかまた | November 02, 2004 04:37 AM
電気椅子の人は、社会に恨みがあったため、自分だけで死ぬのはいやで、道連れが欲しかったので自分からは死ななかったんだと思います。ある意味目的を達成してしまったわけですが・・・。
そういう意味で一人で死ぬのは寂しかったんだと思います。
Posted by: Hiroette | November 08, 2004 08:21 AM
さかまたさん
「生きる意味」より「生きる実感」、ですね。理屈でなく心で感じなさい、ということでしょうか。
Hiroetteさん
道連れが欲しかったんですか。勝手に道連れにされたほうはたまりませんよね。ああいう人こそイラクに行ってほしかったです。
Posted by: 山口 浩 | November 08, 2004 09:50 AM
山口浩さん、こんにちわ、
うーんと、うなっています。
大した共通点ではないのですが、腕の一本や二本なくなってもいいから、とうそぶいて"intifada"はなやかりしころのイスラエルにいった自分のことを思い出しました。当時のイスラエルというのは本当に治安の整った国だったので、おかげさまで私はなんなく帰ってこれました。
イスラエル行きも含めてだいぶ「自分探し」はやったように思います。断食もしたし、学生生活はほとんどの自分探しにつきる怠惰なものだったし、自分で理解できないような本を読んだのもそうだったかもしれません...ああ、そうなんとかいう「セミナー」にも一時期はまりました。
一体なにがかわったというわけでもないのに、いつのまにか「本当の自分」がどこにいるのかなどと悩まなくなった自分がここにいます。
Posted by: ひでき | November 10, 2004 11:47 AM
>一体なにがかわったというわけでもないのに、いつのまにか「本当の自分」がどこにいるのかなどと悩まなくなった自分がここにいます。
変わったんじゃないでしょうか。
「自分を探さなくなった」というのは重要な変化です。家族など、身近な他人との関係の中に「自分の居場所」を見出したのでは?私としては、とりあえず「外国人がどんどん捕まって殺されている土地」に行かなければ見つからないほどたいそうな「自分探し」をする必要はない、と言いたいです。インティファーダ下のイスラエルとはずいぶんちがうと思いますよ。
Posted by: 山口 浩 | November 12, 2004 01:51 AM
自分は自分の中にしかないのですが、それを加齢とともに少しずつ確立して行くのだと思います。だから、特別に外国に行かなくても見つけることはできます。ただし、日常生活をがらっと変える方が気が付きやすいと言うのはあるかもしれません。
気がつく感性があれば、別に自分の住んでいる町を出なくても帰ることは可能ですが、それには外国に行くより鋭敏な感性が必要なのかもしれませんね。気づく力がなかったら、イラクへ行っても気づけないのかもしれませんしね。この辺の加減って難しいですね。
Posted by: Hiroette | November 12, 2004 02:22 AM
山口浩さん、Hiroetteさん、こんにちわ、
貴重なお言葉を、ありがとうございます。
いくつかのポイントがあると思います。
1.探しているのは、「本当に自分」か、「自分で満足のいく自分」か?
2.どちらにせよ「自分探し」をしなくなったことは安定なのか?
3.「自分探し」は死をかけてまで行われるべきではないのか?
思いつくままに書いてしまっています。少々風呂敷ひろげすぎかもしれません。
できれば、自分の考えを記事にしてトラックバックします。これは非常に大事な問題のような気がしてきました。
Posted by: ひでき | November 12, 2004 01:00 PM