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November 12, 2004

義務教育費の国庫負担:問題はそこではない

いわゆる「三位一体改革」に関連して、義務教育費の国庫負担問題が取りざたされている。全国知事会のまとめた国庫負担廃止を含む案に対して省庁や族議員、教員組合などが反対しているという図式だ。

とはいうものの、どうも今ひとつわかりにくい。どうしてこういう議論の流れになるのだろうか。

新聞報道などから拾ってみると、事情はこういうことのようだ。

義務教育費の大半は教員給与らしい。これまで教員給与は、半額が都道府県、残りは国が負担だった。教員給与の総額は年間5兆円だという。つまり国庫負担金は年間2.5兆円という計算になる。今年度の国家予算は総額で約82兆円だ。ざっと約6%といったところか。

知事会、つまり都道府県側は、「国庫負担を廃止し地方で負担したい」と提案し、それとあわせて税源の委譲を求めた。いってみれば自分たちでやりくりする、ということだ。ただし税収には地方格差があるため、地方交付税で調整する案となっている。

地方が国庫負担の廃止を求めるのは、各都道府県で教育に関する創意工夫をするため、ということらしい。現在は基準がきまっていて、たとえば1学級あたりの人数などもなかなか自由にならないということだろう。これに対し文部科学省や日本教職員組合、それにいわゆる教育族の国会議員などは、各都道府県に任せれば教育水準に地域格差が生じると問題視している。教育については、国が水準を確保すべきとの考え方から、それを制度的に担保するための国庫負担を守るべきと主張している。

文部科学省の試算では、個人住民税を委譲した場合、税収がいま国庫負担金として受け取っている金額を下回る自治体が40道府県に上るらしい。上回るのは東京都、愛知県、神奈川県、千葉県、静岡県、大阪府、埼玉県のみ。最大の東京では、2003年度の国庫負担金1,884億円に対して、個人住民税は3,803億円になる。最小の高知県では、税収は139億円で、交付額の45.8%にとどまる。

また、諸外国の例をみると、米国では州が50%、地方が50%、ドイツでは州が100%だが、イギリスでは国が75%、地方が25%、韓国やフランスでは国が100%となっている。またイギリスやアメリカでも、国の負担分を増やしているという。だから日本も国庫負担を廃止すべきではない、という議論だ。

ここまでが報道から得た情報だ。さて。

なぜこの話がよくわからないのか。つらつら考えるに、どこか問題がすりかえられていないか、という疑問が浮かんできた。そもそもこれは、「三位一体改革」、つまり(1)国の補助負担金を削減、(2)地方に税源委譲、(3)地方交付税を削減、の3つをセットで行う改革の一環だった。つまり問題は日本全体の財政構造に関する国と地方の分配問題ということだ。教育というのはあくまでその1項目であるのだから、まず全体的な構造をどうすべきか考えるべきで、教育費をどうするかは次の段階のはずではないか。枝葉の部分から入るから問題がおかしくなるのだ。

知事会の案は、財源と権限をいっしょによこせというものだ。そのために、「ゆるま湯」である国庫負担に依存する構造から抜け出そうというわけだ。これに対し、教育に関する国の権限を守りたい人々と、教員の給与や雇用の悪化を防ぎたい人々とが反対の大合唱をしているという図式になっている。

どうも既視感があるのは、他の分野と同じことが起きているからだ。道路を作っている人たちは「道路建設は絶対削れない」と主張し、防衛をやっている人は「防衛は国の要」と譲らない。社会保障をやっている人は「まだまだ足りない」というし、農家への補助や所得補償も減らそうという気配はない。

この分野は重要だ、あの分野も重要だというのは、その限りにおいて、それなりの理由がある。そんなことはわかっているのだ。問題は、それを全部あわせるとどうなるか、という問題だ。ここだ。ここが違和感の原因だったのだ。

ありていにいえば、「ない袖は振れない」。

貧困国の社会保障制度は、より豊かな国のものに比べれば圧倒的に見劣りがする。たとえば南アフリカでは、国民の何割かがHIVに感染している。先進国では何種類かの薬を組み合わせた「カクテル薬」を感染者に行き渡らせ、発病や病気の進行をある程度抑えることができるが、南アフリカではそれを全感染者に配布できる財政的余裕はない。それを「人権問題」と騒ぐことはできるが、騒ぐだけでは問題は解決しない。それなりのコストが必要となる以上、それを誰が負担するかは解決のカギだ。負担する者がいなければ、手元の予算内でやるしかない。

国にはさまざまな課題がある。限られた予算を各分野にどう配分していくか、優先度や緊急度、戦略性やら何やら、さまざまな要素を勘案して決めていく。それぞれの項目は、理想からはほど遠いものかもしれないが、その時点でとりうる最善の配分であれば、誰も文句はいえない。それが、国が国民に対して約束できる生活の水準というものだ。

同じことが先進国でもあるということを、私たちは認識する必要がある。世界第2位の経済大国たる私たちの国にも、必要な分野に必要な金額を充てられるだけの財政的余裕はない。配分の工夫や、無駄を省く努力は必要だし、それによって改善できる部分も少なくないだろうが、それだけでは問題は解決しないほど、事態は深刻なのだ。どの分野にどう配分するかは、全体とのバランスで考えなければならない状態なのだ。

そうした中で、全体でなく一部だけに関与する人が「自分のところは大事」と主張することに、どれほどの説得力があるのだろうか。今問題となっているのは、全体として入りよりも出が多すぎ、このままでは破綻するという事態にどう対処するかということではないのか。さらにいえば、権限と財源を地方に移して格差は地方交付税で調整するという場合は、地方交付税の規模がキモになる。しつこいようだが、最大の問題は国か地方かではなく、全体としての入りと出のバランスだ。全体のバランスに対して責任をとれない人が議論を主導すべきではないと思う。

教育が大事と考えるならば、戦う相手は知事会ではない。「教育に充てるべき大切な予算」を費消している他の省庁だ。「そちらの政策よりこちらのほうが大事だ」と主張すればいい。当然相手は反論してくるだろう。バランスを考えてそれを裁いていくのが、全体に対して責任を負うべき内閣総理大臣、ということになる。政治家というものは、こういう利害調整のためにいるだ。

問題は、国庫負担をなくすかどうかではなく、国と地方を合わせて、政府部門の収入と支出をどうバランスさせていくか、だ。その中の一部として、国として教育にいくらかけられるのか、かけるべきなのかを考えていくことになる。この順番をはきちがえてはいけないと思う。

豊かになった私たちはすっかり「贅沢」になってしまって、あれもこれもと欲しがるようになってしまった。残念ながら私たちの国は、その全てをかなえられるほど豊かではない。ここからスタートしないと、意見対立は解消できないと思う。

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Comments

いつも興味深く読ませていただいております。
全くおっしゃるとおりだと感じているのですが、よけいなコメントを追加します。
ただ、本日の新聞報道ですと、見送られそうですね。http://www.nikkei.co.jp/sp2/nt24/20041115NN002Y69515112004.html
一連の議論、報道の中で、山口さんご指摘の総論各論の相違という視点以外に、義務教育をめぐる論点で私が特に不思議に思ったことは
1)いまだに教育水準という見方しかできない。
地方に権限を委譲すると、教育格差が生じるといいますが、教育という極めて複雑な事象に対して、(一次元軸上に還元される)単純な格差のみを想定し、地域性を反映するような様々な創意工夫や多様性を認めたがらない人が多いなあという点。
2)いまだに文部科学省に期待している点?
1)の点に目をつぶったとしても、一連のゆとり教育とその揺り戻しや、大学法人化後の縛りが強すぎて法人化の意味なし(法人化そのものはそれほど悪いとは思わないのですが)等々、教育政策をリードする存在としての文部科学省に対して、個人的には相当不信任なのですが、今回の財源委譲はそれを変える良い機会だったと思っています。文部科学省が反対するのは、自らの権益保護のためやむを得ないとしても、雇われ人たる教職員組合や大学関係者など、それに反対する教育関係者って、一体なにを考えているのだろうか?現状の文科省の集権体制を維持してほしい人たちなのかなあ?

というのが率直な感想です。

今後もおもしろいエントリーを期待しています。

Posted by: さとう | November 16, 2004 10:16 AM

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