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December 29, 2004

雑誌目次をみる:「月刊 やすらぎ」

「雑誌目次をみる」シリーズ。今回は「月刊 やすらぎ」。

「人と人をつなぐ月刊総合誌」なのだそうだが、これだけでは何だかわかるまい。
これは、イスラム教徒のための雑誌なのだ。

※追記
「イスラム」は「平和」という意味のことばが語源なのだそうで、その意味では「やすらぎ」という誌名はイスラム的、なのかもしれない。(ネタ元はこちら。ご参照あれ)

こういう雑誌が日本にあったことだけでも少々驚き、ではないだろうか。そもそも日本にはイスラム教信者がどのくらいいるのか。Googleで探してみたら、イスラム教徒のグループのサイトがあった。この情報によると、イスラミックセンター・ジャパンでは5万人、日本イスラム協会では5,000人としていて、正確なところはよくわからないらしい。この情報は2003年以降のもののようだが、いずれにせよ、ここ数年、信者数は穏やかだが右肩上がりではあるようだ。

さて、2004年12月号の目次は次の通り。いくつかの項目にはリンクが張られていて、内容を読むことができる。

編集部より

これはコラムだ。12月は大掃除の季節だが、部屋だけでなく「心の大掃除」も忘れずに、という。ふむふむ。イスラム教徒でなくとも「なるほど」という内容だ。

◎両親の権利
◎タファックル(熟考)
◎ドゥアー(お祈り)

このあたりは申し訳ないがまったく内容が想像できない。「両親の権利」とは、イスラム教では他とちがうのだろうか。「お祈り」って、「あの」お祈りなのか?

足るを知る

宗教的な内容の話だが、実に興味深い。「足るを知る」というと、どうも仏教を思い浮かべてしまうが、イスラム教でも同じように考えるのか。まず、100円ショップで数珠を見つけた話から始まる。数珠!?数珠を売っているのか!?しかもその中にイスラム教の数珠(タスビーフというらしい)もあったとのこと。イスラム教に数珠があるのか!?
…ここはただの導入部だ。そこで見つけた灰皿から、筆者は「足るを知る」へと話をつないでいく。仏教はともかく、老子、アリストテレス、そしてムハンマドも同じようなことを言っている、と。意外にも、イスラム教以外の話がぽんぽん出てくるのだ。このあたり、けっこう寛容なのだろうか。

上記のさまざまな思想において、それぞれなぜ「足るを知る」べきとされているのか、私は不勉強にしてあまりよく知らない。仏教では、欲望を抑えること自体が徳であるように考えるのだろうか。イスラム教はちがう。イスラム教では、すべてはアッラーのものだから、と説明するのだそうだ。人が持つすべてのものはアッラーから与えられた。したがってその一部をアッラーから返せといわれたとしても、不平を言ってはいけない。全部返せと言われなかっただけ幸運だと認識すべきだ。と、そういうことらしい。

で、以下コーランとおぼしき聖典からのさまざまな引用が展開するのだが、最後に引用されているのが、なんとマザーテレサのことばなのだ。他の宗教に寛容なのかもしれないとは思うのだが、なんとも不思議な感じがする。同じ「啓典の民」だからいいのだろうか。・・・あれ?記憶が定かではないが、本来コーランというのは翻訳してはいけないのだ、と岩波新書の「コーラン」(井筒俊彦訳)のはしがきあたりに書いてあったような記憶がある。曰くアラビア語で書いてあるものがコーランなのであって、翻訳されたコーランはコーランではない、といったようなことだ。とすると、この文章で引用されたさまざまな聖句はいったい何なのだ?

◎祈りのある毎日へ
誉められることのない三つの集団

「三つの集団」とは何なのだ?と誰でも思うだろう。当該部分を引用する。

「三つの集団がある。アッラーは審判の日、彼らとお話しになられない。彼らを見られることもない。彼らの罪を晴らされることもない。そして彼らに厳しい罰をお与えになる。服のすそを引きずって歩く者、自分のよい振る舞いを恩に着せる者、品物を偽って売る者...」

これは預言者ムハンマドのことば(ハディースという)だそうだ。どうも、この「三つ」は例示されているように見えるが、実際には例示でしかないという。本当のところ何を意味するかは、書かれていないらしい。しかも、これは明らかに意図的に、わからないように書かれているらしい。なぜか。どうしても論理を追うことができないので、さらに別の部分を引用する。

ここで「三つ」を示しているアラビア語は、限定されていない語であることが文法上明らかである。つまり、彼らは不明確な存在であり、彼らを特定する要素がない。彼らは軽蔑すラき立場にあり、価値を与えられていないのである。アッラーは彼らと話されず、彼らの顔を見られることもないのであるから、あなた方も彼らに興味を持ち、語り、彼らが誰であるか知ろうとする必要はないのである。彼らは敗北し、その心も死体の下敷きになってつぶれてしまった存在である。高貴で偉大な場所に対して全く資格を持たない者たちである。下劣という穴の中でのた打ち回っているのである。
※引用文中の誤植も原文通り。

要するに、アッラーが認めない類の人間がいるが、どんな人かはわからない。アッラーがその人たちに興味をもたない以上、我々もその人たちがどういう人たちなのか、考える必要がない、ということらしい。個々の信者が「自分はどうしたらこの三つの集団に入らずにすむか」と考えてもわからないというのは、正直いって私の理解力を超える。

◎御自分の時代についての言及
◎計画的な雨
◎お子さんを亡くされた方への哀悼の手紙
「翼のない天使」 Wide Awake

1998年のアメリカ映画「翼のない天使」の解説だ。カトリックの男の子が、亡くなったおじいちゃんのことを聞くために神様を探す、というストーリーだが、やはりここでもキリスト教に関する映画を紹介している。


◎ありがたい痛み
◎真理を求める人の第二の階梯「努力(ムジャーハダ)」
◎ひよこ豆のカレー
善行
◎カレッジの小石~ちいさなわたしの、オクスフォード旅行記~4
◎魔術と奇跡の衝突
◎アリときりぎりす
アスマの慈善の喜捨


・・・正直いって、よく理解できないところが多く残った。信仰しているときちんと理解できるのだろうか。それにしても、他の宗教に対する「寛容」なとらえ方は、ニュースなどで伝えられる「イスラム過激派」などとはずいぶん印象がちがう。何しろ私たちは、イスラム教について、イスラムの人々について、本当に何も知らないといっていいほど何も知らない。少なくとも、知らないということに対してもっと謙虚であるべきかもしれない。それと、「ひよこ豆のカレー」はなんだかおいしそうだ。これもイスラム圏の料理なのだろうか?そんなところからイスラムの人々に親近感がわくなら、それはそれでいいことだと思う。

ちなみに、イスラム関係の雑誌というと、他にこういうものもある。時期をみてまたとりあげたい。

季刊誌 アッサラーム
イスラームの道しるべ

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Comments

山口さん、こんにちは。
本年もよろしくお願いいたします。

さて、イスラム教そのものへのコメントでなくて恐縮ですが、「ひよこ豆のカレー」。おいしいです。
本来「ひよこ豆と挽き肉のカレー」として雑誌に出ていたレシピを、手を抜いて家では大豆で作ったりしてますが、やっぱりあの少々固い食感あっての「ひよこ豆カレー」だと思います。

こんなサイトも見つけました。ご参考になれば幸いです。
「ひよこ豆・COM」
http://hiyokomame.com/welcome.htm

Posted by: くりおね | January 04, 2005 02:21 PM

くりおねさん
「ひよこ豆・COM」なんてサイトがあるんですね。21世紀の食料、なんですか。いや勉強になりました。私としては、カレーにはレンズ豆も捨てがたいと思っております。ありがとうございました。

Posted by: 山口 浩 | January 05, 2005 06:17 PM

私ひよこ豆もレンズ豆も大好きです。どうしてみなさん私の好物を知っているんですか(笑)
21世紀を救う豆なんですか。

ちなみにコレド日本橋のスープストックでも豆を使ったメニューは大好きです。

Posted by: Hiroette | January 06, 2005 01:45 AM

Hiroetteさん
「21世紀の食料」が豆でよかったです。以前別のところで、21世紀の食料不足対策として食用昆虫に注目!みたいな記事を読んだことがあって、うへぇそれじゃ今世紀生き残れない、と思っていたところだったので。

Posted by: 山口 浩 | January 06, 2005 01:37 PM

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