希望格差社会と不幸の「発見」
「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである」。トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」冒頭の一文だ。白状すればこの小説を読んだことはないのだが、有名なことばだから知ってはいた。名言とされているわけだし、ひとつの真実をとらえたものなのだろうが、どこかに違和感を感じていた。(この小説を読まずにこんなことを書くのはあまりに無謀なのだが、小説に文句をつけるつもりはないということだけはことわっておく。)
「希望格差社会」という本が注目を集めている。まだ読んでいない(これもかよ)ので書評ではないが、このタイトルを聞いて上記のことばを思い出した。家庭の話と個人の話はちがうのかもしれないが、「家庭」を「人」に言い換えたら、けっこう似ているのではないか、と思ったのだ。以下、ついでに頭をよぎった思いつきを記録しておく。
トルストイの名言に戻ると、あのことばは、おそらく次の2つのどちらかが成り立っているということをいっているのではないかと思う。
(1)たくさんある「幸福な家庭」の条件をすべて備えた家庭が幸福な家庭であって、どれかが欠けていれば不幸な家庭である。
(2)世の中の家庭は皆それぞれちがっているが、「幸福な家庭」の条件を備えた家庭は幸福で、その他のちがいは無視できる。
(1)はいわば減点主義だ。100点満点で幸福。失点が増えると「おおむね幸福」「比較的幸福」「そこそこ幸福」「わずかに幸福」「ぎりぎり幸福」と下がっていき、さらに下がると不幸になっていく、という具合だ。どの部分の失点が多いかによって不幸の相も異なるというわけだ。人に置き換えても同じで、すべてを備えた人は幸福、そうでない人はその失点に応じて不幸、ということになる。
(2)は一点豪華主義といえようか。他はともあれ、「幸福」を構成するいくつかの要素だけ備えていれば幸福になれるというわけだ。上記の(1)よりははるかに「ハードルが低い」ことになる。やはり「人」に置き換えても同じようなことがいえると思う。
さて、トルストイの言葉に対する違和感の原因は、「幸福な家庭はみな似通っている」というところだ。本当にそうだろうか。そもそも幸福とは何か。そんなこと簡単に定義できるわけないじゃないか、と考える方のほうが多数派ではないかと思う。それぐらい何が「幸福」かについての考え方は多様なのだろう。ならば幸福な家庭がみな似通っているなどということがありうるのか。
もうひとつ、「幸福」なる考え方は、なんらかの「基準」なしには成立しないのではないか、と思う。トルストイのことばは、どうも家庭やら人やらを客観的・俯瞰的に見ているように思われる。しかし個々の当事者からみれば、自分が世間的に「幸福」と思われる属性を持っているかどうかなどは問題にならない。自分がどう思うかだ。たとえば一流大学を出て、官庁やら一流企業やらに就職して、家庭があってといった、世間的にみて「幸福」らしく見える人でも、自分で幸福だと思っているとは限らない。逆に、世間的には不幸と思われている属性を持つ人でも、自分では幸福だと思っているケースはありうる。幸福の基準が人によって異なるのであれば、幸福な家庭もまたさまざまなのではないか。
この話はいったんおいて、ここで「希望格差社会」に戻る。
他の人が書いた書評などをみると、「希望格差社会」には、現在の社会には人が努力しても埋められない格差が生じており、「負け組」に属する人々は希望を抱くことができなくなる、といったことが書かれているらしい。まあそうなのだろう。確かに日本を含む多くの先進国でジニ係数は拡大する傾向を示している。しかしジニ係数は格差の指標であって希望の指標ではない。おそらく本にはアンケートやらの結果も出ているだろうが、読んでいない私は、少し視点を時間軸に沿って広げて考えてみる。
歴史上、「努力しても埋められない格差」は昔から存在した。それどころか、格差の度合いは今よりはるかにひどかったはずだ。想像してみてもらいたい。江戸時代に将軍やら大名やらを「勝ち組」、町人を「負け組」と区分する考え方があっただろうか。町人たちにはいくら努力しても将軍になれないという「埋められない格差」が存在した。では自分を「将軍でない自分は負け組だ」と思っただろうか。それはないだろうと思う。もともと町人には「将軍と自分を比較して自分の不幸を嘆く」という感覚すらなかったのではないだろうか。それは町人たちにとって、将軍は「比較の対象」ではなかっただろうからだ。明治維新後も身分制度は残っていたのだから、おそらく1945年までは多少なりと似た状態であったのではないかと想像する。
現代の民主化された社会の下では、このような制度的な身分差は存在しなくなった。以前と同様「特権的」な立場を享受できる層を維持してはいるが、ごくあらっぽくいえば、「町人」でもがんばれば「将軍」になれるかもしれないという希望が生まれたわけだ。こうした考え方は戦後の民主教育を通じて国民の間に浸透していったのだと思う。このことは、いってみれば新たな「フロンティア」が開かれたことで、庶民の「期待水準」が引き上げられたことを意味している。
一方、戦後経済の発達によって、かつて同じ庶民であった者の中での格差も拡大したことも事実だろう。ジニ係数の拡大がそれを示している。先進国の中でも現代の日本はこれが急速に進行しているらしい(京都大学経済研究所の橘木俊詔教授の分析はこちら)。しかしこれで重要なのは、かつては遠くにあってあまり見えなかった「勝ち組」の姿を、仲間だったはずの一部の庶民の中に見出すようになったことをではないか。格差の拡大自体と、それを意識することはちがう。江戸時代に将軍の収入が増えたかどうかは、庶民の意識にはなんらの影響も与えなかったろう。同じ庶民だと思っていた人たちが「上」に上がっていったことで、残された人たちは「下」にいる自らを意識することになったのだ。
つまり何が言いたいかというと、格差の拡大そのものよりも、それに対する認識のほうが「希望」に与える影響は大きいのではないか、ということだ。期待水準が引き上げられ、他人がそこへ上がっていくさまを、なすすべもなく見送らざるをえない自分に気づく。これが希望の格差なのではないか。
おそらく「希望格差社会」では、世代の再生産にもふれているだろう。金持ちの子どもが金持ちになる可能性が高い、というようなことだ。では江戸時代はどうだったろうか?明治時代は?私たちが「不平等化の進行」を語るときに基準とする戦後の一時期の状況自体が、あるいは旧体制の崩壊と高度成長に支えられた「時代の仇花」的な幻想だったのかもしれない。現代はそれが消滅していく過渡期にあるというわけだ。
山口瞳の直木賞受賞作「江分利満氏の優雅な生活」を思い出す。戦後すぐのころは社会階層の別なく皆バラック建ての飲み屋でカストリ焼酎を飲んでいたのに、今はちがってきてしまったと主人公江分利が嘆くくだりがあった。1960年ごろの話だから、もう40年以上前になる。「希望格差社会」の著者は、この時代はまだ「希望」の格差はなかったと主張するかもしれない。しかし私には、江分利(つまり山口瞳本人だ)が、戦中から戦後初期にあった平等観が崩れ、この時代すでに「希望の格差」が発生していたことを感じ取っていたのではないかと思われる。
以前は知らなかった「幸福」の姿を知ることは、その対比である「不幸」をも知ることとなる。こうはいえないだろうか。私たちは、昔の人が知らなかった「不幸」を「発見」してしまったのではないか。希望格差社会とは、自らが「不幸」であることを「発見」した人たちが出てきたということではないかと。40年前に山口瞳が感じ取っていた「希望の格差」に起因する「不幸」の自覚を、今になってやっと世間が認識するようになったのではないか、というのが私の印象だ。
解決策はなどとえらそうにいう立場にはない。しかし、少なからぬ人がいうように、再分配政策をすすめて、戦後の一時期のような「皆同じ」という感覚を取り戻してもらうことは果たして可能なのかというと、それはあまり現実的ではないと思う(理由は長くなるので別の機会に)。
希望の格差が不幸の発見に起因しているのであれば、ひとつの方法は「幸福は1つではない」という当たり前のことをもう一度見直すことではないか。今度は「幸福」を「発見」するのだ。幸い、これを上手にやっている見本となる人たちは、世間にたくさんいる。世間的な評価で彼らを「勝ち組」「負け組」と評価するのをやめて、どのようにして暮らしているのかを学んでいってはどうだろうか(じゃあどうするのというあたりは、これまた別の機会にしたい)。少なくとも、自分が不幸だと思わない人は、おそらく不幸ではない。
あまりにとりとめがなくなってきたので、このへんでやめる。あまりに散漫かつ未消化で(しかもあまり救いもなく)、自分でもむかむかするが、これが今のところの時間と能力の限界だ。また機会を改めて考えてみたい。
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Comments
夢は多いが 現実に結びつける希望は持てない。
こういう社会が顕著になってきたという著者の主張は まさに的確です。
トルストイの冒頭の言、
若い頃に読んだのではっきりは覚えていませんが
「幸福な家庭はやること、考えること、起こることは空疎だ。それに比べて不幸な家庭は小さなことにも感動があり、そこには思いもよらない深い人間らしい営みに満ちている」
そのように理解しています。
あなたの言う 単純な発想ではなかったと思いますので 是非アンナ読破下さい。
きっと自分の価値観を帰るような
Posted by: 松田欣也 | December 27, 2004 07:58 AM
コメントありがとうございます。
読まずに書くのはやはり無謀というものですね。時間ができたらぜひ読んでみたいと思います。
ただ、「幸福な家庭はやること、考えること、起こることは空疎だ。それに比べて不幸な家庭は小さなことにも感動があり、そこには思いもよらない深い人間らしい営みに満ちている」という松田様のご理解における「幸福」「不幸」とは何だろう?とも思いました。「やること、考えること、起こること」が「空疎」な家庭は「幸福」なんでしょうか。「小さなことにも感動があり、そこには思いもよらない深い人間らしい営みに満ちている」家庭は「不幸」なんでしょうか。
いや、まだまだ勉強が足りませんね。読んでから考えます。
ありがとうございました。
Posted by: 山口 浩 | December 27, 2004 09:15 AM
自分が憂いているのは努力しない人と弱者を混同するメディアの風潮です。
Posted by: デジ1工担者 | February 15, 2006 12:28 PM
デジ1工担者さん、コメントありがとうございます。
マスメディアが人に与える影響の中でも、このあたりは特に悪影響が大きいですね。どこかにうまくやっている奴がいるとか、あなたは恵まれていないとか。そのほうが関心を引いて広告収入にはいいんでしょうが、それが何をもたらしたか、公共性を帯びた業務ならぜひ考えていただきたいです。
Posted by: 山口 浩 | February 15, 2006 02:51 PM
[日本を含む多くの先進国でジニ係数は拡大する傾向を示している。]とよく言われていますが,もう少し詳細に見てみると,もともと高齢者層のジニ係数は高く,高齢者の割合が増えたために,全体のジニ係数も上がっているだけのようです.
むしろ,格差は小さくなっているために,山口さんがおっしゃっているように,かつては比べなかったような将軍と比較して,格差がある,といっているように見えます.
Posted by: IT | March 06, 2006 12:34 PM
ITさん、コメントありがとうございます。
「高齢化の影響」は政府が以前からいってましたね。ジニ係数は所得を「マス」としてとらえるマクロ指標ですが、一般的な人の感覚はどちらかというと「私とあの人」というパーソナルな比較のほうが近いように思います。その際誰と比べるかはフレーミングの問題なので、その意味で不幸を「発見」しちゃったのではないか、というのが本文の趣旨です。ジニ係数はともかく、そうしたパーソナルな「差」の意識という点で、いわれるとおり、格差が縮小したから比較の対象が広がってきたのかもしれませんね。で、それが再び拡大しているから問題になると。
Posted by: 山口 浩 | March 06, 2006 04:58 PM
パラサイトシングル,希望格差社会,いずれも山田昌弘氏は,日本に限定した1950年代あたりの世代から最も評価を得る答えをうまく表現されていると思いますが,正直なところ,いつも何か違うと思ってしまいます.山田昌弘氏の世代は,パラサイトシングルの子供を持つにはまだ少し若く,もちろん同世代にはパラサイトシングルはいません.また,本人自身は,希望格差の犠牲は感じていないはずです.海外に行ったらパラサイトシングルという表現自身おぞましいと目を背けられると思います.
Posted by: IT | March 06, 2006 08:26 PM
ITさん
「パラサイトシングル」や「希望格差社会」など、いわゆるキャッチーなことばは、好き嫌いはあると思いますが、コミュニケーションのための「コスト」を下げ、かつ人々の関心を集めるのにある程度有益ではないか、と思います。ただ、英語だと確かに「強い」表現かもしれませんね。Washington Postでとりあげてましたが、どう読まれたか、気になるところです。
http://www.washingtonpost.com/wp-srv/WPcap/2000-02/10/101r-021000-idx.html
Posted by: 山口 浩 | March 07, 2006 04:31 PM
下記のようなコメントもあるようです。
http://www.ezipangu.org/english/contents/news/naname/parasite/1.html
Posted by: IT | March 18, 2006 04:38 PM
ITさん、お知らせありがとうございます。
読んでみます。
Posted by: 山口 浩 | March 19, 2006 02:28 AM