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December 26, 2004

「赦す」ということ

昨日に続きクリスマス特集。特定の宗教を賞賛したり推奨したりするものではないが、宗教関係には多くのすぐれた知恵が隠れている。キリスト教もそうだ。記憶に残っていることばを1つ挙げる。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 聖書(新共同訳) ヨハネによる福音書 / 8章 7節 (財団法人聖書協会のサイトで本文を検索することができる)

この分野には専門家が多いからうかつなことを書くべきではないのだろうが、私の印象では、キリスト教のキーワードの1つは「赦し」ではないかと思う(ちがっていたらご指摘いただきたい)。その信仰そのものは受け入れられない人も多いだろうが、この「赦し」については、他の宗教の信者であっても、宗教を信じない人であっても、さほど抵抗なく受け入れられるものではないだろうか。

こんなことを書くのは、今の時代、かつてないほど「赦す」ということが重要になってきているのではないか、と思うからだ。「受け入れる」と言い換えてもいいかもしれない。自分と立場の違う者、利害の対立する者、価値観の異なる者、嫌いな者。人はさまざまな理由で他人を遠ざけ、傷つけ、貶め、嫌う。人の歴史はこれらの繰り返しだった。しかし同時に、寄り添い、いたわり、理解し、受け入れることもしてきたはずだ。社会の発達とともに人々の間の交わりはどんどん増えている。前者の道を行くか、後者の道をとるかの選択が互いに与える影響は、かつてないほど大きくなってきていると思う。

最初に引いた聖書のことばは、姦通でつかまった女を律法に従って石で打ち殺すべきかどうか尋ねられた際のイエスの回答だ。専門家の解釈は知らないが、独断で解するなら、誰でも罪を犯すことを自覚したうえで行動せよ、といったところだろうか。自らも罪を犯す存在である以上、その自覚なしに他人が犯した罪を声高に非難するのは適切なふるまいではない、と(その裏には、裁くのは神の仕事、といった発想があるのかもしれないが、ここでは信仰に直接結びつく部分には着目しない)。元首が聖書に手をおいて宣誓するどこかの国に言ってやりたいところだ。

このような自覚は、国や社会といったマクロレベルだけでなく、個人の日常生活のレベルでも重要だと思う。もちろん、なんでも赦せ、ということではないだろうが、自分も「過ち」を犯す存在であることを自覚するのとしないのとでは、ずいぶんちがうはずだ。特にネットでは、ことばだけが頼りだし、つい強い表現にもなりがちだ。人を批判するとき、糾弾するとき、反論するとき、説得するとき。「あいつ許せない」と決め付ける前に、もう一度考えよう。ことばの爆弾を投げつける前に、いったん踏みとどまろう。相手が強い態度に出てきたからといって、同じ態度で返さなければ沽券に関わる、などと思い込んではいないか。論争に勝つのがそんなにえらいのか。

世の中には戦わねばならないときがあり、戦わねばならない相手がある。そんなことはわかっている。でもそれは今なのか、この相手なのか、またそのやり方でいいのか、よく考えてみよう。「石を投げ」るときには、自分が石を投げるべき立場にあるのか、この相手に投げるべきなのか、どのくらいの強さで投げるべきなのか、ちょっと立ち止まってみたらいいと思う。同じことを表現するにしても、自分が100%正しいとは限らないことを自覚していれば、自然と受け入れられやすい表現を工夫しようとするはずだ。相手がまちがっていたとしても、自分もまちがう存在であることを自覚していれば、どう対処すべきかわかるはずだ。「赦す」という行為は、勝ち誇った者が敗者に与える「慈悲」ではなく、どちらも同じ「小さな存在」であることの自覚からくる謙虚さのあらわれなのだと思う。キリスト教徒も、そうでない人も、休日の続くこの季節、人の善意に触れることの多いこの季節は、そうした考えをめぐらすのに適している。

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Comments

はじめまして。いつも楽しく拝見させて頂いています。
「赦し」
要するに相手を受容すること。
人とコミュニケーションをとる上では欠かせないものだと思います。
そういう意味では今に始まったものではないですね。宗教的な厳しい戒律もやはり人ありきのものですし、守れない戒律は自然と廃れて行きます。現代ヨーロッパで実質的にキリスト教が、形骸化している事実は、神を絶対と立てる一方で、所々で矛楯も生じているからだと思います。
相手を容認すること。これは宗教的レベルというより、むしろ一般社会にも通じるものですね。偽善は通用しない。
現代ほど、人一人一人の資質が問われる時代は無いのではないかと思います。

Posted by: みっちー | December 26, 2004 11:58 PM

赦すってそんなに簡単なことじゃないですよ。たとえば肉親を誰かに殺されたり、自分が半身不随にされたりしたら、その相手を赦せるかどうか。

確かになんでもかんでも糾弾しがちな人は少しこういう事を考えたりした方がいいですが、赦すってほんとそんなに簡単じゃないです。ちなみに私はまだ赦せないことがあります。でも、某故国会議員の娘さんを見ると本当に心を打たれます。

Posted by: Hiroette | December 27, 2004 06:51 AM

コメントありがとうございます。

みっちーさん
ヨーロッパでの宗教の現状については不勉強でよく知りませんが、日本における仏教の現状と似たところがあるのでしょうか。
それでも2000年かけて蓄積された知恵の結晶だし、いいところは道徳に似たものとして信仰に関係なく取り入れてもいいのではないか、というようなことを思ったりします。

Hiroetteさん
確かに赦せないことってありますよね。ただ、誰もが家族を殺されたり半身不随にされたりはしていないでしょう?私がイメージしていたのはもっとずっと「軽い」類です。ネットだと、正直どうでもいいようなことで「言葉の実弾」が飛び交うケースが多くありませんか?いちいちいきりたってたら時間がいくらあっても足りませんよ、といったようなことで。
Hiroetteさんの「赦せない」ことがどんなことかはわかりませんが、それが5つや10くらいならともかく、あまりたくさん、多岐にわたっているようだったら、少し減らせないか考えてみてはいかがでしょうか。「戦う」にしても、ターゲットを絞ったほうがいいでしょうし。心はなかなかコントロールできないと思いますが、私個人としては、「大きな目的を意識する」という方法をトライしています。小さなことなどどうでもよくなるような、大きな目標です。
「某国会議員の娘さん」は、確かに心を打たれますね。みんながそこまで行けるとは思いませんが、少しでも近づけたらいいですね。

Posted by: 山口 浩 | December 27, 2004 09:34 AM

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