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December 18, 2004

「正しい」人々

世の中には、「正しい」ことによって評価されている人々がいる。その多くは、何かの問題についての専門的知識を持つプロフェッショナル(自称、他称を問わず)や、社会的立場などのために重大な責任を持つ人たちだ。

こういう人たちは、つくづくかわいそうだと思う。

よくわれわれは、この種の人々が何かまちがいと思われることを書いたりしゃべったりしたとき、「~ほどの人が」とかコメントしたりする。専門家なのだからきちんと調べて書け、裏をとれ、証拠をみせろ、世間に対して説明せよ、といったぐあいだ。で、まちがったからあいつはだめだ、専門家の名に値しない、やっぱりにせものだ、本当は悪者だ、相手にすべきでない、などと片付けたりする。

要するに、「正しさ」が、他人からみたその人の「人格」の一部になってしまっているのだ。これはつらい。

人は誰でもまちがう。この当たり前のことを、われわれは忘れがちだ。専門家ならまちがうべきでないという人もいるかもしれないが、専門家がその専門分野でまちがうことも、実はそれほどめずらしくない。アインシュタインがその代表的な科学的貢献の1つである一般相対性理論を唱えた際、定常宇宙論との整合性を守るために「宇宙項」を数式に書き加えた話は有名だ。後に宇宙が定常的ではなく、膨張していることが証明されると、宇宙項について自ら「生涯最大の失敗」と評したという(Wikipediaによる解説はこちら)。(科学オタクの皆さん科学的記述の正確さについては突っ込まないでくださいね本旨とは関係ないので)。最近、宇宙項の存在が再び唱えられるようになったが、それはアインシュタインのモデルとは異なる理由でだ。

もう1つ例を挙げる。1998年、大手投資ファンドLTCMは、マートンやショールズなどノーベル賞学者を経営陣に抱えながら、国際的な金融危機のあおりを受け、空前の損失を残してあえなく経営破綻した。リスクを評価し、適切な運用手段を提供するための経済理論を確立したことによってノーベル経済学賞を受けたマートンやショールズが、実際のマーケットにおいてそれらの理論が通用しない現実に直面したのだ(これをもって金融工学理論そのものの破綻であると評する人が少なくないが、それはちがう。本論と離れるのでまた別の機会に)。

経済学関連でもう1つ。聞いた話だが、別のノーベル経済学賞学者は、1つの論文の数式の証明で2箇所まちがったらしい(自分で読んでいないのであくまで伝聞)。たまたまその2つの誤りが互いに打ち消しあうものであったため、結果として数式は正しかったのだが、それでも証明をまちがったにはちがいない。

これらの誤りは、アインシュタインやマートンやショールズの功績を無にするものだろうか。彼らの人格を否定すべきだろうか。

例がおおげさすぎたかもしれない。ノーベル賞級の学者なら、他にも業績はたくさんあるわけで、小さな誤りによって名声を失うようなことはなかろう。だがこのことは、それほど卓越していない「ふつうの専門家」についても言えることではないか。専門的能力の価値は、その全体によって決まるのであって、よほどのことでなければ、誤り1つですべてを失ってしまうようなものではない。また、その誤りが悪影響を及ぼすのは彼らの専門的能力への信頼に対してであって、人格までを否定するのはおかしいと思う。

まあ、「正しい」人々の中には、自分は常に正しいといわんばかりの人も少なくないから、同情すべきケースばかりではないのも事実なのだが。

いうまでもないが(大学者と並べるのはおこがましいが)、このblogの管理人も「常に正しい」とは限らない。能力の限界により、あるいは単なる不注意やら情報不足やら何やらのため、まちがったことを書いたりしゃべったりする可能性は常にある。ご承知おきいただきたい。で、まちがいを見つけたら、「さりげなく」教えていただけると助かる。虫のいい話だが。

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