中小企業のための目からウロコ的ファイナンス論…?
ファイナンス理論には、暗黙の前提としている「企業のあり方」がある。所有と経営の分離、広く分散した株主構成、機関投資家が活発に取引を行う株式市場、情報の透明性、などだ。
中小企業の場合、こういう想定が必ずしも適切とは限らない。とすると、ファイナンス論のあり方もずいぶんちがってくるはずだ。といった思いつきのメモ。
所有と経営の分離は、19世紀終わりごろから20世紀はじめごろに成立した。業務の高度化に伴って、経営者の専門的能力が重要になってきたことが背景にある。ちなみにだが最初のビジネススクール(ダートマス大学のエイモス・タック経営大学院)も、この時期成立した。株主は株主総会における議決権などを通じて経営者をコントロールするが、日常の業務は経営者に任せる。20世紀半ばには経営者の力がさらに強まり、「経営者主権」などということばも出てきた。
この時代、株主構成の分散は、近代ポートフォリオ理論の基礎となった。企業の経営規模が拡大すると、より多くの株主から資金を厚めなければならず、必然的に株主構成は分散していく。株主が企業のパフォーマンスに影響を与えられないとすれば、リスクとリターンは株主にとって外生的なパラメータである。とすれば、株主にできるのは、リスクに対して最大のリターンをとれるよう、ポートフォリオの内容を調整することだけだ。割安な株式は買われ、割高な株式は売られる。情報は市場に広く流布しているため、皆が同じ情報を使って利益を求める。結果として株価は入手可能な情報をすべて反映し、裁定機会は瞬時に消滅する。また、企業はその信用リスクに応じて自由に借入ができることが想定されているから、資金不足という事態は生じない。
株式の価値は、価格よりも収益率で語られる。それはポートフォリオの一部として保有され、必要なら自由に調節できるからだ。1,000株しか持っていない個人投資家は自由にポートフォリオを調整することはできないが、機関投資家は大量に保有しているからそれを自由にできる。株式は転々流通していくものだが、元から持っている人と、新しく買った人の両方にとって同じメリットをもたらすものでなければならない。また、株式を少ししか持っていない人と、たくさん持っている人とで収益率がちがっていてはならない。だから金額ではなく、収益率が基準となるのだ。このことは同時に、企業が常に拡大を指向し続けなければならないことをも意味する。収益率を年10%とすると、100が翌年には110で収益額は10だが、そのまた翌年は121になるわけで収益額は11になっていなければならない。
こうしたことはいずれも、中小企業の場合には、必ずしも成り立っているとは限らない。仮定をゆるめると、まったくちがう世界がひらける。
中小企業においては、パフォーマンスの基準は収益率でなく手持ち現金だ。いってみれば、geometricの世界ではなくarithmeticの世界というわけだ。それはそもそも所有と経営が分離しておらず、株主構成も分散していない。株式の移転・分割を想定しない経営なのだ。また同時に、手持ち現金が基準だということは、借入に制約があって、不足資金を必ず調達できるわけではないこととも関係している。手持ち現金がゼロになったら、それは倒産を意味するのだ。
収益率が基準にならないことは、拡大を指向しない経営が可能になることを意味する。100の元手が翌年に110になって、10の収益を得たとして、その翌年に11を目指してももちろんいいが、10のままでよいという発想をすることもできる、ということだ。
こういう発想は、むしろ現実に広く受け入れられているのに、学問の世界からは、おおざっぱにいえば排除されてきたように思う。こういうものに対してまじめにアプローチすることによって、新しい理論の可能性が拓けるだろうか。おおげさにいえば「成長へと駆り立てられる『マルサス的』呪縛からの解放」のようなものもあるのかもしれないが、まだよくわからない。ベンチャー企業のファイナンスなどは、若干これに近い部分があるかもしれないが、成長への志向などは、やはり「額」よりも「率」の世界か。2つのタイプの企業が市場に混在するとどうなるだろう?市場はつながっているのか?分断されているのか?うーんよくわからない。
当面、これから少し考えていきたいと思う、と逃げておく。
The comments to this entry are closed.
Comments
やまぐちさん、おはようございます、
このトピックについてはいくらでも語れます。実務担当者ですから。さすがにネットでは語れませんが、必要あればいってください。
Posted by: ひでき | January 17, 2005 09:32 AM
非常に納得。企業の非成長モデルとでもいったらいいか。成長モデルの側の収益のロジックとして、上場-Exitというケースがある一方、上場もないしExitもないような世界で、参加者がそこそこに安定した豊かな生活を送っている、というモデル。そんな企業、そこらにゴロゴロあるんです。けど、学問的なターゲットになったことはないみたい。
僕の友人がいま、こうしたテーマで社会人大学院生の生活を送っています。
Posted by: miyakoda | January 17, 2005 10:26 AM
をを、なんかおもしろそうですね。
こういうテーマで人集めしてプレゼン大会&座談会などいかがでしょうか?
最近、地銀さんとか、中小企業金融公庫さんとか、「community banking」とか言ってましたよ。
Posted by: ひでき | January 17, 2005 09:34 PM
す、すみません。↑で「コミュニティー・バンキング」といっていたのは、大嘘で「リレーションシップ・バンキング」の間違いでした。失礼いたしました。
Posted by: ひでき | January 18, 2005 05:56 PM
ひできさん、miyakodaさん
コメントありがとうございます。なんだか関心を呼んだようでうれしいです。
日常レベルでは問題なく受け入れられることなんですが、既存の理論体系との整合性は少し考えないといけないだろうと思っています。
ぜひいろいろ実例とか考え方とか教えてください。
Posted by: 山口 浩 | January 18, 2005 09:39 PM