善意を「消費」するという発想
正確な表現は覚えていないが、コトラーの有名なマーケティングの教科書に、「口紅を買う女性は、唇につける色を買っているのではなく、それによって得られる希望を買っているのだ」といったことばが出ている。レブロンだったか、化粧品会社の人の発言を引用したものだ。似た例として、「4分の1インチのドリルを買うとき、その人が欲しがっているのはドリルそのものではなく、そのドリルによってあける4分の1インチの穴だ」といったものも出ていたと思う。要は、モノを買うときでも、人が欲しいのはモノそのものではなく、それによって得られる満足(効用)だ、ということだ。
同じようなことを考えた。
ボランティアについてだ。
P.コトラー、G.アームストロング(和田充夫、青井倫一訳)(1995)『マーケティング原理――戦略的行動の基本と実践』,ダイヤモンド社
新潟や神戸など、自然災害に教われた地域で、多くの人たちがボランティアとして活動した。最近のスマトラ沖地震でもみられたように、現地には行けなくとも、募金に応じたり物資を送ったりしている人はさらに多い。それと比べれば数はぐっと少ないだろうが、国際的なボランティア団体に所属して、アフリカの子どもたちやアジアの女性たち、その他さまざまな地域で困難な状況におかれた多くの人たちに対して、現地に行って援助の手をさしのべようとしている人たちもいる。例外があるかもしれないが、こうした人たちの大半は、疑うべくもない「善意」に動機づけられている。人の役に立ちたい、困っている人を助けたいといった気持ちだ。
こういう考え方は、自らのためにモノやサービスを買ったりすることとは正反対である、と考える人も多いかもしれない。利己主義と対極にある利他主義というわけだ。しかし実は、この2つはけっこう近いところにいるのではないかと思う。
マズローの5段階欲求説では、第4段階の欲求は自我の欲求(自分が集団から価値ある存在と認められ、尊敬されることを求める認知欲求)、その上の最高次は自己実現の欲求(自分の能力、可能性を発揮し、創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求)だ。この説では、それ以下の段階の欲求、つまり生理的欲求、安全の欲求、および親和の欲求が満たされたときのみにこれらの段階の欲求があらわれるとするわけだが、日本を含む多くの先進国においては、少なくとも第2段階まではおおむね満たされている。第3段階が満たされている人も多いだろう。つまり、第4および第5段階の欲求が人々を突き動かす状況が存在しうるのではないか。
こうした欲求のために、人は時間と金を喜んで投じる。ブランドものの口紅でよりきれいになりたいという「希望」を買うのと同じように、ボランティアでよりよい人間になりたいという欲求を満たすのだ。そうしたボランティアは、やっていて楽しい。そのための労働は必ずしも苦役ではなく、むしろ一種の娯楽といってもいい。
そういう動機は不純だという考え方もありうる。しかし、それでいいのではないか。ひとつは、偽善でも何もしないよりましだ、ということがある。「同情するなら金をくれ」と叫ぶテレビドラマがあったが、まあそういうことだ。しかし、それだけではないと思う。偽善でもいいという考え方は若干うしろめたさを隠して、ということだが、もっと前向きにとらえてもいいかもしれない。消費は楽しい。消費することは、人間にとってプラスの価値を持つ。したがって、善意を「消費」することは、最もレベルの高い娯楽であり、それができるのは、最も幸せな人々なのだ。そう考えれば、ボランティアのできる人を、周囲はうらやましく思うようになるかもしれない。自分もできることならしてみたい、と思うかもしれない。最も「レベル」の高い現地でのボランティア活動ができない人は、「しかたなく」自分にできる寄付でもするものの、いつか自分も現地で活躍したい、などと思うかもしれない。
悲壮な使命感も悪くないが、もっと軽やかに、自由に、人の役に立つ自分を楽しめる世の中になったら、面白い。
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Comments
この記事をはじめとして山口様の主だったブログ記事をウェブログ図書館( http://library.jienology.com/ )に登録させていただきました。
ときに、2004年12月分の記事で「マスメディアの社会的責任:アーカイブの開放」と「「映画館」という業態はサステナブルか?」の固定リンクが共にpost_5.htmlで重複してしまっていることに気づきました。前者が後者に上書きされてしまっているようです。そのため前者はウェブログ図書館に登録する価値ありと考えたものの登録できませんでした。
Posted by: ウェブログ図書館 館長 | February 08, 2005 04:26 PM