権利 を享受する「資格」
人はだれでも、生まれながらに決して侵してはならない人権を持つ。民主主義の崇高な理念は世界にあまねく広まるべきものである。それが国際社会の「合意」であり、多くの国際機関がそのために日々奮闘している。
しかし場合によっては、必ずしもそうとはいえない、という議論もある。という話を自分の勉強のためにメモ。
開発経済学において、いわゆる「ワシントンコンセンサス」という考え方がある。詳細は専門書に任せるとして、簡単にいえば、新古典派的なマクロ政策と,貿易と資本の自由化がその国の経済発展に不可欠だとする考え方だ。だから経済活動における自由を広く認めるのがよい、という結論が導かれる。
しかしこのような考え方は、実際には機能しないケースがしばしばあることがすでに知られている。90年代末に起きたアジア金融危機もそうした例の1つだ。そもそもアジア金融危機の大きな原因は国内金融システムの脆弱性を残したまま金融自由化を推し進めたことに起因する資本収支危機であり、問題発生に対してIMFなどが各国の実情をふまえない改革プランを押し付けたことが事態のさらなる悪化を招いた。
こうした経験をふまえてか、最近では「北京コンセンサス」とでも呼ぶべき考え方が途上国などから注目されているという。ガバナンスを重視し、民主主義を徹底するやり方ではなく、性急な自由化をせず、開発独裁を容認する考え方だ。政治面では社会主義独裁を貫きながら、経済面での自由化を進めていく中国のやり方を参考にしようというものだ。というか、もともと「東アジアの奇跡」と呼ばれる東アジア諸国の急速な経済発展の多くは、独裁政権(に類似した体制)の下で起きたことという経験もある。
似たような話が、人権についても考えられるかもしれない。今世界には、人権が守られていない国、「人権」という発想自体にあまり慣れていない国がたくさんある。こうした国では、いきなり人権を保障する法律を作ってもきちんと運用できないおそれがある。とすれば、欧米諸国が主張するように、まず人権を守り、ルールや制度をきちんと整えてこそ経済発展がなされるという考え方は、必ずしも適切とはいえないことになる。
世界の誰でも権利を享受できる、という状態が理想的なのだろうが、実際はそううまくはいかないことが多い。公的援助は軍事費に流用され、あるいは官僚のサイドビジネスのネタとなる。人道支援のNGOすら賄賂を強要される。選挙は部族間闘争を引き起こすだけの結果となり、政府は外国企業のロビイストに牛耳られる。もちろんこうしたケースばかりではないのだが、かといって清廉潔白な人々ばかりでもない。問題なのは、人権面では眉をひそめたくなる国々のほうが経済発展している、というケースが目立つ状況にあることだ。
残念だが、人々が権利を享受できるようになるためには、ある程度社会が熟している必要がある。権利を享受するにも「資格」が必要なのだ。人権が経済発展を生むというよりは、経済発展が人権への意識を高めるということなのか。
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