デジタルデバイド、という選択肢
もはや手垢のついた感があるが、デジタルデバイドということばがある。日本語だと情報格差、ぐらいになるのだろうか。情報技術の利用可能性によって経済的格差が開くことをいう、とどこかに定義されていた。もっといろいろな定義のしようがあるだろうが、まあ似たようなものだ。
デジタルデバイドは、経済状況、教育水準、技術水準などの差によって、世代間、個人間、地域間に生じる格差だ。情報化社会においてデジタル技術の恩恵を受けたくても受けられない人がいることは社会として問題で、なんとかしないと、という文脈だ。ここでいうデジタルデバイドは、当該本人の意思に関わりなく起きてしまうというニュアンスが暗黙にある。
しかし、デジタルデバイドにはもう1種類あるのではないか、と思った。
自分で選び取るデジタルデバイド、だ。
こういう表現が適切なのか、という問題はある。だいいちまぎらわしいし。まあ、目を引くためのちょっとした小ざかしい工夫、ぐらいに思っていただければ。いずれにせよ、思いつき程度のものだ。
で、本題。言いたいのはけっこうシンプルなことだ。誰かがどこかで書いているかもしれないが、探す時間がないので。念頭においているのは、今blogをやっている人たちの間で議論されている「blogでのコミュニケーションのあり方」に関する状況だ。といっても状況のすべてを説明しようとかいった大それた野望ではなく、まあきっかけになった程度のものなのだが。
ネットが嫌い、という人々がいる。わからないとか金がかかるとか時間をとるとか、そういった理由で嫌う人ももちろんいるのだが、ネットでのコミュニケーションだとか、コミュニティのあり方などに不快感をもっている類の人々がいると思う。不快感の理由にはいろいろあって、その適否は別問題だが、とにかくそうした人々は確かにいる。レッテルを貼るなら「リアル派」みたいな表現になるのかもしれないが、レッテルは一人歩きしやすいし、別にわざわざそうする必要も感じないので、単に「ネットが嫌いな人々」としておく。
こういう人々の中には、いわゆる典型的な「デジタルデバイド」として語られる類の人たちももちろんいる。ブラインドタッチができないので原稿は原稿用紙に書く、PCにどうしてもなじめないのでメールは見ない、使い方がわからないので携帯電話は持たない、そういった類の人々だ。あるいはより典型的に、PCが使えれば職業に就けるのに、金がなく自分では買えないので使えない、したがって就業機会もない人とか。要は「できない」類の人々だ。できないから嫌い、わからない、こわい、となる。
本人以外の事情で生じてしまったこういうデジタルデバイドは、解決しなければならない問題として認識されている。教育訓練の機会とか、より使いやすい機器やらソフトやらの開発とか、まあそういう、さんざん語られた対処法を、ひとつひとつやっていくしかないのだろう。与えられなかった機会を与えることで、本人もデジタル技術の恩恵に浴することができるし、社会全体としてもコスト削減になるというわけだ。
しかし、ここで注目したいのは、そういう人たちではない。技術に詳しい人でも、ネットワークを使いこなす能力があって実際に使っている人でも、ネットでの文化とか、そこでのコミュニケーションとかが嫌いな人はけっこういる。そういう人たちのことだ。つまり、「デジタル文化、ネット文化に対して冷淡ないし敵対的でいる態度を『自ら選択する』人たち」とでもいおうか。
とりあえず3つくらい思いついた。ネットコミュニケーションでは肉声が伝わらないから不安、なんていうのもあるだろうし、2ちゃんねるなどでよくみられる匿名の罵詈雑言の応酬が嫌い、というのもあるだろう。リアルの世界ではそれなりに尊敬される立場なのに、ネットの世界では「それにふさわしい」扱いをしてもらえないという不満を持つ人もいるかもしれない。他にもあるのだろうが、とりあえずこのぐらいにしておく。
最初のやつはおいといて、その他の2つの場合、カギを握るのは、匿名でのコミュニケーションや、ネット上の人格で形成されるコミュニティといったものを「自分のもの」としてとらえられるかどうかだろう。ネットの世界の中には、リアルの世界のしきたりをそのまま受け継いでいる領域がある。典型的なのは、リアルで関係のある人や企業の間のコミュニケーションをネットで行う場合だ。しかしそのすぐとなりに、匿名なりハンドルネームなりの「仮想人格」で構成される社会がある。ここでコミュニケーションのあり方は、現実の社会とは大きく異なっていて、現実の世界ではありえないようなやり方があたりまえのようにまかりとおる。それを「自由」と感じるか、「すさんでいる」と感じるかの差は大きい。少なくとも、ネットのコミュニケーションでもリアルでのやり方を引きずる人にとっては、罵詈雑言の類はがまんならないもののはずだ。逆に、仮想人格でのバトルロワイヤルに慣れている人からすれば、ちょっと叩いたぐらいで過剰反応したり議論を拒否したりされれば「理解できない」となるのだと思う。
ネット流のコミュニケーションスタイルへの違和感は、その人がリアルで名のある人ならなおさらだろう。人のありようは、他者との関係で大きく変わる。「名のある人」と扱われるから、名のある人らしくふるまえる(そういえば「ハリー・ポッターと秘密の部屋」に同じようなセリフがあった)。ところが、リアルの社会の感覚でネットの社会を泳いでいこうとしても、そうはうまくいかない場合はよくある。ネットの社会では有名人でないために意見を聞いてもらえないという場合や、ネットでは主張が「相対化」され有名人であるはずの自分の意見が思ったほど説得力を持たないという場合などが考えられる。とにかく、「ネットの社会では自分の主張がリアルの社会でそうであるほどには力をもっていないかもしれない」ということを、受け入れられるかどうか。それができなければ、「ネットの社会は未熟」といった見方をすることになるわけだ。
こういった、本人が自ら選択したデジタルデバイドは、「解決すべき課題」というわけでは必ずしもない。現在のネットの状況がベストだとは思わないが、現在のありようの少なからぬ部分はネットというものが不可避的に備えている性質だし、その性質を望ましいものとして享受している人々もいる。また、わかったうえで「ネットは嫌い」と自ら選びとっているものに対して「解決してあげましょう」というのもおこがましい話だ。
となると、今後この種のデジタルデバイドは、このまま存続していくのだろうか。
たとえば電話、という技術がある。ベルが電話の特許をとったのが1876年だから、100年前ならまぎれもないハイテクで、誰もが使えるものではなかったはずだ。当初は電話によるコミュニケーション自体を信用しない人も多かったろう。だから電話は、実際に会って話をすることの「不完全な」代用として位置づけられた。電話で用件を告げるときなど、「電話で失礼いたします」という断り文句があったのもそのせいだ。しかし今、こういう表現は、死語とまではいかないがだんだんすたれてきている。なぜだろうか。
技術進歩によって電話が使いよくなったからだろうか。おそらくだが、ちがう。
人が入れ替わったからだ。生まれる前から電話が身の回りに当たり前のものとして存在し、当たり前のように使いこなしながら育った人々が社会の中核を担うようになった。だから、電話によるコミュニケーションを一段下にみる価値観は、多少だが薄れることになってきたのだ。つまり、こういうことに関する人の常識感覚というのはかなり「頑固」であって、変わりにくいものなのではないか。それはたとえばことばや生活習慣についてもいえて、歳をとると、人は必ず「最近の若い者は」と愚痴りたくなる。それは若い人たちと自分との間に感覚のずれが生じていることを意味するのだが、おそらくはそうした「ずれてしまった人々」が社会から退場していくことで、ゆるやかに社会全体のコンセンサスが動いていく。つまり、問題は技術受容に関する世代間格差だったということになる。
とすると、時間が経過すれば世代が入れ替わって、ネットとともに育った世代が社会の中核を担うようになり、「ネットを嫌う人々」が「選び取る」デジタルデバイドは消滅するのだろうか。
ある程度はそうだと思う。だが少しちがうとも思う。すべてのネットコミュニケーションが抑制の行き届いた「秩序」あるものになっていくとは思わないが、かといってすべてが「2ちゃんねる」化するとも思わない。2つの領域、つまり、典型的には固有名詞が知られた同士がリアルの世界と同様相手に気を遣い、罵詈雑言はないが自由度も低いコミュニケーションを行う領域と、匿名同士が集まって何でもありの言論バトルを繰り広げる自由なコミュニケーションを行う領域には、それぞれいい点と悪い点があり、それぞれ存在意義がある。問題はそれらが混ざり合っていて、そのために摩擦が生じてしまうことだ。こうした差は、必ずしも世代差に帰属するものではないと思う。
たとえば今、blogをやっている人たちの間では、そこでのコミュニケーションのあり方について、考え方の齟齬があることがあきらかになりつつあると思う。ある人々はリアルの世界と同じようなスタイルでのコミュニケーションをネット上でもしようとしているのに対し、別の人々は「ネット流」の罵詈雑言やら「祭り」やらを持ち込んでくる。よしあしはその人の考え方次第だが、このような差はともあれ摩擦の種だ。とすると、今後期待し、あるいは実現に向けて努力していくべき方向性は、まだ新しい道具であるblogでどのようなコミュニケーションを行っていくかについて、ある種の「暗黙の合意」のようなものができ、棲み分けが起きてくることではないか。そうした「棲み分けによるデジタルデバイド」ができてくれば、さまざまな考えを持つ人々がネットの世界でそれなりに「平和共存」していく助けになるのかもしれない。
…シンプルに書くつもりが、長ったらしくてしかもわかりにくくなった。書きなおすのは面倒なので、概略をまとめると、
・ネットでのコミュニケーションのあり方について2つの考え方がある。1つはリアルの世界でのような抑制された「毒のない」もの、もう1つはネットの世界によくある自由で「毒のある」ものだ。
・この2つが入り混じると、摩擦が起きる。新しいコミュニケーションツールであるblogの世界では、今こうした摩擦が起きているのではないか。
・解決の方向性があるとしたら、blogでどんなコミュニケーションが行われるべきかについて、なんらかの「合意」ができ、棲み分けがなされることなのではないか。
ということだろうか。要は、コミュニケーションのスタイルがちがう人たちはそれぞれ別の場に行きましょうという、長々しく書いた割には、あまりに面白くない結論だ。ここまで読んでいただいた方に申し訳なく思いつつ、今日はここまで。
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