UFOの 正体見たり 偵察機
ここ1年ほど、その筋の人々の間で関心を集めていたイランのUFO騒ぎは、大方の予想通り米軍の偵察機であることがわかった(ニュースはこちら)。2月13日付のワシントン・ポストが報じたもの(元記事はこちら)で、イラン核開発の証拠集めや防空能力に関する情報収集を行うため、米軍は約1年前からイラン国境沿いで数種類の偵察機を飛ばし、電波探知や写真撮影などを行ったほか、核開発に伴う物質が空気中に含まれていないかを調べるためサンプル採取を行っていたという。ただし新たな情報はほとんど得られなかったらしい。ちなみに偵察機は占領したイラクから発進したものだそうだ。イラン側は在テヘランのスイス大使館を通じ、米政府に正式に抗議した。
イラン上空にあらわれた正体不明の飛行物体のすべてが米軍機であると証明されたわけではもちろんないが、まあ大半はまちがいなく米軍機で、少なくとも地球外生命体である可能性は限りなく低いといってよい。この点について議論する気はないので、その筋の方は突っ込まないでいただきたい。
イラン上空のUFO騒ぎが当該一部の人々の「期待」を高めたのは、ひとえにそれが「unidentified flying objects(UFO:未確認飛行物体)」と表現されていたからだ、と思う。このことば自体には、それが地球外から来ているという意味合いはまったくないわけだが、どうしても人はあのflying saucers(空飛ぶ円盤)をイメージしてしまう。過去のニュースもよく読めば、イラン当局が米軍の偵察機の可能性を疑っていたことや、「未確認飛行物体」がイランの核施設のある地域に集中して現れることなどを報じているので、想像できなくはないはずなのだが、つい「米軍は偵察衛星があるから偵察機を飛ばす必要はないはず」とか「地球外生命体がイラン核開発に関心を持っている」とかいった方向に連想してしまうのだ。
笑うのはたやすいが、少し落ち着いて考えてみよう。私たちは、何かについて判断するとき、既に持っている知識や経験をよりどころにすることが多い。そのうえ私たちは、現在や将来がこうあってほしいなとか、こんなことにだけはなってほしくないとか、なんらかの期待を持っていたりする。こうしたものを利用することで、判断がより適切になったり迅速になったりするわけだが、同時に現実をねじまげてしまうおそれがある。もともと持っている自分の考えに合っている部分だけが目に入り、そぐわないところは関係ないものとして切り捨てられる。意図していなくても、こういうことは自然に起こりうるのだ。
何かものごとについて判断するとき、「イランのUFO」と思い出すといいかもしれない。自分の思い込みで事実をねじ曲げて解釈していないか。自分に都合の悪いことから目をそらしていないか。決して他人事ではない。誰にでも起こりうることだと思う。
…なんていうことを、米当局の方々もよく考えたほうがいい、のだろうか?
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