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March 20, 2005

かくてユートピア的メディア論は浦島太郎になった

朝日新聞2005年3月18日付「三者三論:『メディアの行方』」で、東洋大学の大石泰彦教授が、メディアのあり方についてたいへんりっぱな議論をしておられた。冒頭の一節が特に印象的なので、引用する。

「メディアには、国民の知る権利を代行し、権力を監視する役割が期待されている。利益だけを追求する一般企業とは違って、私企業ではあっても、損得を度外視して追求すべきは追求し、国とも対決する。そんなジャーナリズムの心構えや知識が、ライブドア社長の堀江貴文氏にあるか。これまでの発言を聞く限りは疑問に思う。」

いや、実に高邁な理念だ。さぞかし耳が痛いだろう。
ライブドアが、ではない。既存マスメディア各企業が、だ。 

冗談はさておき。

私はメディア論には門外漢なので、上記の議論がメディア論の中でどのくらい説得力をもっているのか知らない。しかし、ビジネスという面ではかなりはっきりしている。現在のメディア企業は、上記のような状態にはすでにない。大石教授も認めておられるように、「経済の道具」としてメディアをとらえるのが世界的な傾向だ。しかしそれは、外部から押し付けられたものでもなんでもなく、むしろメディア企業自身がそういった方向を選び取っているのだ。もはや「損得を度外視して追求すべきは追求」といったメディア企業像は「ユートピア」でしかない。営利企業である以上、利を追うのは自然なことだ。現場の人たちはいろいろ悩んだり苦しんだりしながら日々働いているのだろう。それ自体は非難すべきことではない。

それはともかく、このメディア論と現実のメディアのずれ具合は、なんだか激しく既視感がある。しばらく考えてようやくわかった。社会主義だ。かつて社会主義の論者たちがユートピア的な社会主義像を論じて悦に入っている間に、現実の社会主義はそこからどんどん離れていき、その溝はとうとう2つを永遠に隔ててしまった。社会主義を標榜した国のほとんどは民衆の幸福を実現しないまま、歴史のかなたに消え去ってしまったのだ。理論としてのマルクス経済学に現在でもそれなりの意味があるのは認めるが、現実の社会で今後高度資本主義から革命によって共産主義へ移行するという流れが起きるとは、少なくとも今のところ考えにくい。だいいち現代は、資本家と労働者がかなりのところ重なっているのだし。要するに、高邁なる社会主義の理論は現実の社会主義国家を「救えなかった」ということだ。

話を本題に戻す。申し訳ないが、冒頭の高邁なメディア論は社会主義論に似たところがあるように思う。再度申し訳ないが、いってみれば浦島太郎だ。竜宮城で我を忘れて遊び呆けている間に世の中はすっかり変わってしまいましたとさ、と。この立場から利に走るメディア企業を非難するのはたやすいが、それでは問題は解決しない。法律でその存在をいわば「保証」された公共放送ですら、「国と対決」ではなく「国にご説明」することを公然と認める時代だ。営利法人たる民間メディア企業に対して過度な期待を抱くのは気の毒というものではないか。むしろある意味で、高邁なメディア論には、理想と現実の板ばさみになって苦しんでいるメディア企業に有効な解決策を示してこれなかったという「道義的責任」がある。

冒頭の引用部分の後には、「堀江氏が放送局を所有し、フジテレビにも影響力を行使することによって、我々にどんなメリットが出てくるのかは依然として見えない」というくだりがある。私にも見えない。ただし、フジ=サンケイグループがこれまでのままであることによって我々にどんなメリットがあるかも、やはり見えない。要するにどちらがいいのか誰にもわからないのだ。だったら、どっちでもいいではないか。これは民間企業同士の買収の話だ。企業と株主との間で話してもらえばいい。言い切ってしまうが、高邁なメディア論の出番ではない。

仮にライブドアがフジ=サンケイグループを「支配」することがあったとして(だいたい一体「支配」って何だ?奴隷制の社会じゃあるまいし)、それがうまくいってネットと融合したメディアの新しい像なるものを見せてくれるのなら、私たちは社会全体として得をする。逆にうまくいかなければ、…役職員の皆さんには申し訳ないが、それほど損はない。いくら何でもフジテレビが消滅するような事態にはならないだろうし(そんなことをしたらライブドアにとっても大損だ)、万が一そんなことになったとしても、正直な話、マスメディアは他にもたくさんある。それに、優秀なスタッフには、必ずや他社から引き合いがくるはずだ。

先ほど社会主義を引き合いに出したのは、もう1つ理由がある。マスコミが「第4の権力」と呼ばれるようになって久しいが、マスメディアへの新規参入への拒絶的反応や、情報の取捨選択機能におけるマスメディアの特権的地位への固執などが、どうしても社会主義の下での生産手段公有を想起させてしまうのだ。大石教授の論だと、一般大衆には情報の見極めをする能力がないから、優れたジャーナリストが適切に取捨選択して与えてやろうということになる。いわば情報財の生産と流通における計画経済、といったらいいすぎだろうか。

もちろん自由な市場はしばしば失敗するから、何でも市場に任せればいいという乱暴な議論はできない。しかし逆に、何でもプロのジャーナリストに任せればいいというものでもないはずだ。彼らが情報の発見や真実の追求において欠けるところがあり、また第4の権力たる既存メディア自体の監視が充分でないと感じ取ったからこそ、ネットの中から参加型ジャーナリズムのような動きが出てきたのではなかったか。ともあれ、ジャーナリズムなるものが過去どのように定義されていたかは別として、「知る権利の追求」だとか「権力の監視」だとかといった社会に必要な機能をプロのジャーナリストだけに任せなければならないという理由はない。プロのジャーナリストが担う部分は当然あるだろうが、他の者がやっていい部分だってある。両方あっても何も悪いことはない。そんなものはジャーナリズムではないというなら、別の名を与えればいい。大切なのは「何がジャーナリズムか」ではなく、国民の知る権利だとか権力の監視だとかいった目的のために何が役に立つかだ。

ライブドアが日本のメディアすべてを支配しようというなら話は別だが、そうではない。メディアの将来がどうなるとかいう大げさな話ではないのだ。企業経営の話は、当該企業同士に任せよう。その過程で法律の問題が出るなら法廷で争うなり示談するなりすればいい。関係者は、どちらが自分の利益につながるか考えて態度を決めることになろう。そういう議論だったら、まわりもどんどんやったらいい。企業の価値は、そこで働く人々(と資産)で決まるのであって、その資本を誰が提供するかで決まるのではない(報道を見聞きする範囲では、ニッポン放送の方々はちがう考えなのかもしれないが)。だったら誰が株式を持つかによってメディアが死ぬだの生きるだのという議論は不毛ではないか。

メディア論は、精神主義的な理想論からそろそろ脱却すべきだ。公益性は否定しないが、それを担うのはほとんどが営利企業なのだ。ユートピアにとどまり続けるわけにはいかない。現実をふまえた提案がなければ、現実の世界に生きるメディア企業の助けにはならない。さらに、技術や社会の発展に伴い、かつてメディア企業が担っていたジャーナリズムの機能の一部は他のものでも果たせる可能性が出てきたことも認識すべきだろう。飛行機時代になっても鉄道の有用性はなくなりはしないが、競争や役割分担は起きる。それと同じことだ。仮に、鉄道のみが「正しい」乗り物で飛行機は邪道だ、と叫ぶ人がいたら、人々はどう思うだろうか。

最後にもう1つ。ジャーナリズムを担うメディア企業のあるべき姿が冒頭の引用部のような高邁なものであるなら、株式会社、それも上場会社という形態はその目的にそぐわない。さっさと上場廃止すべきだ。さらにいうなら、特定の出資者の意見に振り回されないよう、公益法人になるのがよかろう。それほど高邁な目的で国民のためになるものであるなら、株主も喜んで資産を放棄してくれるにちがいない。…ちがう?

渡辺聡・情報化社会の航海図」の記事「ジャーナリズムと資本論:フジ/ライブドアを絡めて」に関連するテーマの記事があった。アメリカでは一次情報の不足が参加型ジャーナリズム台頭の背景にあるという話、それに対するDan Gillmorのコメントを紹介している。湯川氏の指摘するLong Tailの話とは逆方向だが、根っこは同じわけで、これも納得。トラックバック。

※追記
「仮にライブドアがフジ=サンケイグループを『支配』することがあったとして」と書いたが、「なかったとして」を書いていなかった。いわずもがなだと思うが、誤解されるのもしゃくなので念のため追記。仮にライブドアがフジ=サンケイグループを「支配」することに失敗したとしたら、・・・ライブドアの役職員の方々には申し訳ないが、その場合でも我々には損はない。ネットと既存メディアの融合は、どこかほかのところ(既存メディア自身ということも充分ありうる)がやるだろう。おそらくはもっとスムーズに。そのことは、別にメディアの公共性とかジャーナリズムのあるべき姿とかとはまったく関係なく、単なるM&Aの失敗だ。

※追記2
冒頭のような「ジャーナリズム」を体現するものとしてマスメディア企業を考えるのであれば、新聞、ラジオ、テレビなどジャンルにまたがった系列化や、都会のキー局を中心とした系列化が進んでいることのほうがより大きな問題ではないだろうか。何しろ、系列会社の間の批判はなされないか大甘になるという、大石教授にすれば由々しき事態であるはずの状態が現に蔓延しているのである。メディア企業によるメディア支配はなぜ問題にならないのかね。第4の権力への監視は必要ないのだろうか?

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Comments

同じ題材を違う角度で考え,自分なりの考えを自分のブログにポストしました.トラックバックを張っておきますので,よろしかったらご覧ください.

Posted by: 俊(とし) | March 20, 2005 12:36 PM

 はじめまして。新聞社員です。
 ご指摘には大筋で賛成しますが、大石教授は研究者として「メディアの倫理学」「メディア哲学」みたいな立場から論じているので、これはこれでいいのではないですか。理念は理念として、その有効性について競えばいいわけでし、「産業としてのメディア論」と交錯するところがあれば、それはそれでいいし。大石教授が指摘するようなニーズもあるわけですから。
 「理想主義的なメディア論から脱却すべきだ」とのご指摘ですが、おっしゃりたいことはよくわかります。ですが、例えば、法哲学者に向かって「法哲学から脱却するべきだ」と言っているのと同じ気がするんですが。
 メディア企業が営利企業であるのは、そもそも出発点からです。でも、メディア以外の営利企業だって、崇高な企業理念を掲げているところはあるんじゃありませんか?あんまり理想と現実の間で苦しんでいるという実感はありません。それこそ、メディア企業を過大評価しています。ただ、冷厳な現実に苦しんでいるだけです。  

Posted by: Marc | March 21, 2005 11:09 PM

Marcさん、コメントありがとうございました。
大石教授は、ライブドアの問題を「メディアの倫理」という問題で切っておられたのに対して、私は筋ちがいだと考えました。
「大石教授の指摘するようなニーズ」は私も認めます。おおいにやるべきです。だからといってそれが、ライブドアを排除する理由にはならないかと。
メディア論は、不勉強ですが高邁な理屈だけ語っているような学問ではないと思います。少なくとも具体的なケースにあてはめて論じるなら、最低限現実に即したレベルで議論すべきかと。「メディア企業を過大評価」しているのは、むしろ大石教授のような考え方ではありませんか?
それよりも「冷厳な現実」って何でしょうか?興味があります。私は何人かのジャーナリストの方とお話して、理想と現実の板ばさみになっている印象があったのでそのように書きました。ちがった実感があるようでしたら、ぜひ教えてください。

Posted by: 山口 浩 | March 21, 2005 11:45 PM

 脱字があり、失礼しました。「競えばいいわけでし」→「競えばいいわけですし」です。
 
 私が申し上げたかったのは、「メディア企業にとってのメディア論の有効性」という観点から大石氏を批判するのは無意味だ、ということ。山口さんのメディア論を批判しているのではなく、その舞台回しに大石氏を使うのはアンフェアではないか、と思っただけです。私は大石氏とは面識もないし、何の関係もありません。念のため。
 メディア論とは学問としての蓄積も陣容も異なりますが、政治学を例にしましょう。政治学者の中には、投票行動を研究している人もいれば、比較政治体制論を研究している人もいれば、アリストテレスや福沢諭吉を勉強している人もいる。それぞれ価値がある。で、アリストテレスの政治哲学を研究している人が、日本の政治家を批判的に論評したとする。政治家が抱えている現実を知らない論評になるでしょうが、政治家や有権者は、吸収できるものを吸収すればいい。「浦島太郎だ」といったところで、何も始まらない。
 大石氏は自らの専攻を、「メディア倫理法制」と限定し、メディアの理念や社会的機能について、堀江氏の言説を論じているのだから、それはそれでいいのではないですか。もちろん、理念は現実によって鍛えられるべきだし、理念同士でも競い合うべきです。私は「権力の監視」だけがメディアの機能だとは思っていないし、それがメディア以外に担われる可能性もあると思っています。学問としてのメディア論が未分化で、産業論としての視点が乏しいのも事実でしょう。ですから、冒頭に「ご指摘には大筋で賛成します」と申し上げたわけです。ただ、大石氏らメディア研究者に、山口さんがいう「メディア企業に有効な解決策を示してこ(ら)れなかった『道義的責任』」はない。それこそ筋違いです。経営学者に「うちの会社、どうしたらつぶれないでしょうか」ってたずねる経営者がいますか?
 ライブドア問題については、私も企業の買収の話だと思っています。大石氏もライブドアを「排除」はしていないと思いますが。「ネットが放送と融合すれば、『伝送路』の大きさとしては既存のメディアを超えるかも知れない」と語っていますからね。
 ただ、大石氏がライブドアを否定的にとらえていることは間違いありません。そして、大石氏の立論からすれば、それは自然です。大石氏がメディアの機能として「権力の監視」を重視し、「ネタはどこかに転がっているのではなく探すものだ」「損得を度外視して追求することが必要だ」と指摘しているのですから。大石氏がそれらをメディア企業の必要条件として規定し、かつ、その必要条件を(私が知る限り)堀江氏は「いらない」と言っていますからね。さらにいえば、その点に関する認識が、今あるメディア企業(といってもいろいろありますが)と堀江氏の大きな相違点なのだから、大石氏がその切り口で、(ビジネス論ではなく)メディア論としてライブドア問題を扱うのは、筋違いでも不当でもありません。
 もし、山口さんが「大石氏がライブドアを否定するのは理由がない」と主張するならば、「メディア企業もライブドアと同じ営利企業ではないか」では批判になりません。そうではなくて、「なぜライブドアだけを否定するのか。メディア企業に違う態度をとるなら、メディア企業が大石氏のいう社会的機能を果たしていなければならない。その例を示せ」(大石氏は今のメディア企業を肯定しているわけではないでしょうが)とするべきでしょう。
 その質問に対する論証は大石氏の記事中にはありませんが、最近では例えば、北海道新聞の「北海道警の裏金」報道を思い出せばいいのではないでしょうか? 多くのメディア企業が、大石氏が指摘した機能を必要だと認め、時にはその機能を発揮しているとすれば、仮に大石氏がライブドアを否定し、今あるメディア企業を肯定したとしても、その論理は破綻していない、と私は判断しますが。
 山口さんが「最低限現実に即したレベルで議論すべきだ」という場合の「現実」が、「メディア企業が営利企業である」ということならば、大石氏の理論構成とは無関係です。

 「冷厳な現実」はたいしたことではありません。山口さんがいう「理想」と「現実」の内容について誤解しているかもしれませんが、大石氏のような主張を「理想」、営利企業としての実態を「現実」としましょう。山口さんは「理想と現実の板ばさみになって苦しんでいるメディア企業」としていますが、企業としては板ばさみになっていません。だって、営利企業なのですから。テレビのことは知りませんが、新聞社が抱えている課題は、これまで営利企業としての新聞社を支えてきた市場や「伝送経路」が変わることが確実であり、その中で、これまでの蓄積を生かしつつ生き残り策を模索していかなければならない、ということだと考えています。

 長文になり失礼しました。「大石なんて、現実を知らないのが馬鹿なこと言っているよ」という感じで書かれているならコメントしたりしないのですが、正論を展開なさっているので、つい絡んでしまいました。

Posted by: Marc | March 23, 2005 03:40 AM

Marcさん、コメントありがとうございました。
いや、意見がちがう人とこうやって建設的に対話できるのっていいですねぇ。あちこちのblogで罵声が飛び交ってますが、ここはそうはしたくないので。

で、「山口さんのメディア論を批判しているのではなく、その舞台回しに大石氏を使うのはアンフェアではないか」とのことですが、私は、私のメディア論を展開しようとしたのではなくて、大石教授のメディア論を批判したかったのです。舞台回しではなく、あれが本題です。私のほうがむしろおまけです(そもそもあれはメディア論というよりメディア企業論、という感じかも)。

あの記事はライブドア問題について大石教授を含む3人が主張を展開するものでした。ライブドアをネタにして、ライブドアの考え方はけしからん、ジャーナリズムはああいうものであってはいかんという論調だったので、いやそういうジャーナリズムじゃないものがあってもいいのでは、と書いてみたわけです。別にジャーナリズム全部が変わってしまうわけじゃなし、と。で、ライブドアがだめだとする理由が、現実世界にはどこにもない「理想のジャーナリズム」に比べてだめだからというわけですから、そりゃちょっと待て、といいたくなってしまったのです。

なので、「理想と現実の板ばさみになどなっていない」というご指摘は目からウロコが落ちました。いや聞いてみるものですね。メディアの方々は、私が外部から想像しているよりずっと健全だと安心しました。となると、本来は、大石教授と既存メディアの皆さんが戦うべきなのでは、と思いますね。

それから、「道義的責任」論は、私の気負いすぎでした。社会科学研究者の端くれとしては、なんらか社会に役立ってなんぼではないか、という思い入れがあったもので、そうでない人を見てかちんと来たようです。その意味では、そんなに期待されてないというのは、ちょっと淋しい気もしました。でもそんなもんなんだな、きっと。

ちなみに、ご存知だとは思いますが、堀江社長の「メディア論」とやらは別に彼独自のものではなく、アメリカなんかではずいぶん前から出ているし、日本でも最近盛り上がってる話ですね。その意味で、ITの発達による情報フローの変化に伴うジャーナリズムの変化の話と、堀江流の資金力を背景にした経営スタイルの話は、分けて考えるべきだと思います。

いや何しろ勉強になりました。まだ消化できていない部分もあるので、もう少し時間をかけて考えてみます。といっても私はメディア論そのものに入る気はありませんので、あくまでメディア企業論の入り口程度のものでしょうけど。ともあれたいへんありがとうございました。またいろいろ教えてください。

Posted by: 山口 浩 | March 23, 2005 11:59 PM

 こちらこそ、ありがとうございました。大石氏の論点は大切だと考えているので戦うつもりはありませんが、言いたいことはほぼ伝わったので打ち止めにします。
 ついでにもう一言。ネット上を含め外部に向かって新聞の立場を発信している人の多くが、取材者としてのキャリアしかないため、新聞が「商品」であり、新聞社が「製造業」であるという意識が欠落しているように思います。ネット上では、それが誤解を広げている場合がある。通信社の記者の方のブログにも、そんな印象を受けることがあります。 

Posted by: Marc | March 26, 2005 01:45 AM

「うむ。このへんで勘弁してやろう」ということでしょうか。ありがとうございます。
「製造業としての新聞社」というご指摘は、記者blogの人たちに「売る」という発想がないということでしょうか?新聞社も企業である以上「売れる」記事を書いてなんぼ、ということですかね?つまり、ジャーナリズムの良心なるものは、大排気量の高級車を作ってる某自動車メーカーにとってのハイブリッド車、みたいなものなんでしょうか。別に気負う必要はないわけですね。普通の企業が普通に持ってる職業倫理とか、社会に対する責務とかと同じで。

Posted by: 山口 浩 | March 27, 2005 01:36 AM

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