パブリックジャーナリストはだめなのか?
ライブドアのパブリックジャーナリストの評判がよくない。記事の質が低い、取材せずに意見ばかり書く、文章が下手、韓国とは事情がちがう、ライブドアがやってるのが気に入らん、とさんざんだ。
だめなのだろうか。これまでちゃんと読んだことがなかったが、ふと思い立ってざっと見てみた。
記事の内容にいく前に、パブリックジャーナリスト関連の記事を少し挙げておく。
まずはこれ。
「パブリック・ジャーナリスト宣言」
なんだかえらく気負っている。おおげさで少々危なっかしい感じだが、理想は高いということか。
次に反論。
「ライブドアPJに忠告し忘れた欠陥 [ブログ時評10]」
「パブリックジャーナリストって」
「ライブドア・パブリックジャーナリストがネットで泣き言」
「ライブドア パブリック・ジャーナリストの茶番」
いやもうさんざんだ。他にも山ほどあるが書ききれない。というか、紹介するに耐えない悪口雑言も多いのでたくさん挙げるのもどうかと思う。あ、別に上記が悪口雑言だ、といっているわけではないので念のため。
もちろんそういうものばかりではなくて、たとえばガ島通信氏の批判なんかは、根底に「期待」のようなものが流れているように思う。いや別に期待がなくてもいいのだが、とにかくまっとうな批判もあるということだ。
「自らの可能性を否定するライブドアPJ」
さて。自分で読んでみてどう思ったか。
文章の質については何もいうまい。私も他人のことなど言えた義理ではない。ただ、プロの記者が書いた新聞記事でも、「言語明瞭、意味不明瞭」なものはたくさんある。この人は自分が何を書いているかわかってないな、と透けてみえる記事も少なくない。文章で人にものを伝えるのは難しい。その意味でたいていの人は「五十歩百歩」だ。
パブリックジャーナリストの記事で一番気になるのは、「事実」よりも「意見」に偏ったものが少なくないということだ。たとえばこんなあたり。
「個人情報保護法で不便になる世の中。」
「左側通行が合理的?大阪と東京の違い」
「日本の安保常任理事国入り、英誌の見方」
「迷惑防止条例をどう考えるか」
ジャーナリストが意見を書くことはもちろんある。だからパブリックジャーナリストが意見を書いたからといって、だからだめだというわけではない。しかし意見というものは、人によって異なるのが当たり前だ。意見のちがう人に対して説得力を持つためには、きちんと事実をふまえて書くか、圧倒的な説得力を備えるかしかない。ちゃんとできているかどうかはともかくとして、プロのジャーナリストはこの点をふまえている。新聞社の記事とパブリックジャーナリストの記事が並んでいれば、どうしたって比べてしまうではないか。「記者」としては駆け出しのパブリックジャーナリストが論説委員ばりの議論を展開するのは、「10年早い」とまではいわないが、ちょっと無理がある。少なくとも現在みられるパブリックジャーナリスト批判の多くはこの点を指しているようで、その点では批判にも説得力がある。
きちんと取材しろといったってパブリックジャーナリストが海外取材とか政治家へのインタビューとかできるわけがないじゃないか、という意見もあるかもしれないが、ちょっと待て。そういう記事を読み手はパブリックジャーナリストに期待しているのか?書く側は政治やら世の中やら、世の中で力ある者に対してものを言いたいのだろうが、「素人」がそれをやってもプロにはかなわないのがあたりまえだ。
そうでなく、マスコミは伝えない小さなニュースをきちんと事実に即して書いていると、マスコミのニュースとは競合しない独自の価値を持つようになる。多くの人が関心を持つことはないかもしれないが、それを望む人には届く可能性がある。ネットではそれが可能になるのだ。
私がざっと見渡した限りでは、こんなあたりは、読んでなかなか面白かった。
「事業再生士の認定制度設立へ」
「公費旅行」の新聞記事に、町長がブログで反論」
「地震雲?20日に博多駅前から見た雲(読者投稿)」
「目覚めたら松本城が無かったら?」
「東大ローソンその後」
「値下げをしても民間の3倍!公営地下駐車場」
「欅(ケヤキ)の青葉繁る氷川神社参道」
「トイレ掃除から学ぶもの」
身近なところからニュースを探せば、「一次情報」を発信することができる。別に遠くまで取材に行く必要などない。それはその地元にいる人が書けばいいのだ。そういう地元の情報をそれぞれ発信する人たちのネットワークが全体として意味を持つのであって、既存のジャーナリズムと同じように少数の記者が広い地域、広い領域をカバーしようなどと考えるのは筋ちがいだと思う。
ただしパブリックジャーナリストがだめだ、という決めつけにも反発を覚える。少なからぬ批判は見るに耐えない罵詈雑言だし、「既存マスコミ万歳」「ライブドア憎し」の偏った意見も目立つ。気持ちはわからなくもないが、ただの悪口は読んで損した気分になるし、「会社憎けりゃPJも憎い」はあまりに粗雑な議論だ。
明治のころ、自由民権運動の時代、たくさんの新聞が発行されたが、その多くを占めた小新聞では質の低い記事や悪口雑言の類が満ち満ちていたことを想起されたい。(参考:乾照夫「成島柳北と自由民権~明治14年以降の『読売新聞』を中心に~」、『経営情報科学』2巻4号、342-360。)また、第2次大戦中には大半の新聞が大政翼賛化し大本営発表を報道し続けた。現在あるジャーナリズムの「ご立派」な姿は、そういう歴史を経て、百年かけて築き上げてきたものだ。これまでガリ版刷りの壁新聞やミニコミ紙にとどまっていた「草の根のジャーナリズムらしきもの」が今やパブリックジャーナリスト制度によって世界へと発信されるようになったわけだが、「ジャーナリズム」の仲間としてはまだまだ黎明期だ。既存ジャーナリズムが百年かかったのに、パブリックジャーナリストを1年もたたずに見切るのは早すぎる。
別に賞賛する必要はまったくない。質に不満があるのは当然だと思う。残念ながら、「書きたい人」と「書いてほしい」人は必ずしも同じではない。だからむしろ、質による淘汰が必要だ。そのためにももっとたくさんの人がたくさん記事を書いて、競争してもらいたい。100年とはいわないが、もう少し長い目でみようではないか。
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