入札改革は過当競争を招くのか?
公共事業の発注は、原則として入札で決められる。業者間の競争を促すことで、コストなどよりよい条件で発注できるという期待を持つわけだ。しかし実際にはなかなかそうはならない。談合が常態化して、行政側の予定価格ぎりぎりでの落札(落札率ほぼ100%というわけだ)が続いたり、なぜか受注企業がきちんと順繰りになっていたりすることが少なくない。ここ10年ほどの間に進められてきた入札改革は、こうした問題をなんとかしようとするものだった。
そのかいあってか、落札率が大幅に低下したとする例がいくつも報告されている。めでたしめでたし、と思ったら、今度は業者のほうが悲鳴を上げ始めた。過当競争でまっとうな業者もつぶされる、と。
じゃあどうしたらいいのさ、などと簡単にいえるものではないのだが。以下は書き物をしながらつらつら考えている間に思いついたいくつかのあまりとりとめのないメモ。
現在行われている入札改革の主な方策は、いくつかのカテゴリーに分けることができるように思う。
(1)競争を促進するための政策
基本的には、指名競争入札から一般競争入札(本来はこっちが原則なのだが)にして、入札に参加できる業者を制限しないようにし、競争を促進するものだ。談合は全員が合意しなければ成立しないから、「全員」の範囲が広がればそれだけ談合は難しくなる。参入の自由を確保して談合を防止し、競争によって価格が低下することをねらうわけだ。インターネットで入札できるようにするのも同じ目的で、入札が容易になるだけでなく、誰が入札しているかがわかりにくくなる。
(2)価格以外を評価要素に加えようとする政策
かといって、価格だけを考慮していては、競争が激化したときに工事の質が低下したり、質の悪い業者が入り込んだりするおそれがある。だから価格以外の要素、技術力や実績、地元への貢献や経営姿勢なども考慮に入れて業者選定を行うようにしようというものだ。競争の弊害を少なくすることで、競争の促進をやりやすくするわけだ。また、VE方式のように業者側からの提案を生かそうという工夫も行われている。
(3)談合を難しくするための政策
競争を促進する以外にも、談合を難しくする手法はある。談合の前提となる業者間の「協調」を崩すためのもので、典型的には選定プロセスに偶然性を加える政策がある。くじによって予定価格を事後に引き下げるいわゆる横須賀方式などはこれにあたる。あらかじめ業者間で合意したシナリオを崩してしまうことで、談合の価値を失わせようというものだ。
で、こうした入札改革を実施したところでは、落札率が大幅に下落しているところも多いらしい。市民の立場としては万歳なのだろうが、今度は業者の側の不満が大きくなっている。過当競争でどの業者も利益が出なくなっているわけだ。とりあえず固定費を一部でも回収できれば赤字の工事でも「ないよりまし」だから、どの入札にも赤字覚悟で入札する業者がいる。だからどの入札でも赤字になって、まっとうにやっている業者も経営が立ち行かなくなってしまう。品質維持などを目的として最低入札価格を事前公開するケースも多いが、そうするとその最低価格に張り付いて、事実上の指定価格になる。だから現在の入札改革に異議あり、と。
ふうん。なるほど。確かにそういう面もあるよなぁ。と考えそうになったのだが、ちょっと待て。別にまっとうな業者さんに対してどうこういうものではないし、土木・建設業界を軽んずるわけでもないのだが、ただ問題の構図をちょっと整理しておくべきではないか。
税金を投入する公共事業の入札において、業者間の競争を促進してよりよいものをより安く調達する、というのは、大義名分として問題がない。ないよね?だから競争の存在自体は正しい。では問題はどこからくるかというと、「過当」競争ということになる。技術に対する評価が選定基準にあまり生かされていないから過当競争の弊害が大きく出るという問題があるのはその通りで、それはなんとかしなければならないところなのだが、それ以前の問題として、問わなければならないことがある。そもそも過当競争は入札改革のせいなのか?入札改革がなければ過当競争は生じなかったのか?異論があればお聞きしたい。過当競争の最大の原因は入札改革ではなく、建設業界における需要と供給のギャップだ。はっきりいうと、少なくとも現状では、公共事業の量に比べて業者数が多すぎるのだ。
ごくあらっぽくいうとこうなる。各自治体に公共事業の数がa件、建設事業者の数がb社ずつあるとする。競争力に差がないとして、それぞれ自治体内の企業だけが入札に参加できるとすると、期待される工事獲得件数はa/b件になる。これを入札改革によってとなりの県の工事にまで参入できるとしても、工事件数は2a件、業者数は2b社になるから、期待される工事獲得件数は2a/2b=a/bでやはり変わらない。建設業者の数は年々変動しているが、大局的にみればこの10年ほどの間あまり変わっていない(バブル崩壊後、巨額の公共事業をやっていたころは増え、今はそのときからみると少し減っている)。だから競争が激化したのだとすれば、それは第一義的には公共事業が減少したからだ。入札価格が最低限に張り付くのは、入札参加企業数が多いからというより、そうでもして受注したい経営状況の企業が多いことの反映だ。
だからといって、談合を許容すべきだ、という議論にはならない。ならないよね?では公共事業を増やすべきなのか?そんな余裕のある自治体がどこにある?あるのなら、そしてその自治体の住民が納得しているなら、問題はないのかもしれないが、実態はそうではない。だから、もし公共事業が増えないなら、抜本的な解決策は、企業数(および従業員数)の減少しかない。建設業界では入札に不利だとして再編には乗り気でない風潮だそうだが、とすれば言いかたは悪いが脱落者待ちの耐久レースを続けるしかない。
そういう意味からも、優良な業者が淘汰されてしまう問題については、もっと真剣に考える必要がある。技術力や提案力などを反映できるしくみは、運用がなかなか難しいだろうが、どんどん進めてもらいたい。技術力などの要素を正しく勘案して発注先を決められるようになったとしたら、そのとき技術力の弱い建設会社は「引導」を渡されることになる。そういう企業はこれまで以上に仕事をとりにくくなるだろうからだ。
入札や契約の方式でもっと何か工夫ができないかについては、少し考えるところがあるがそれはまた別途。
ちなみにだが、建設労働者の賃金に関して、低いという議論がある。それ自体を否定するものではまったくない。ただそもそも、ガテン系職種の中で比べると、建設業界はむしろ労働条件の整備が進んでいるほうといえるのではないだろうか。大阪自治労連のサイトをみると、2002年3月の公共工事設計労務単価は、大工が日額20,700円、型枠大工が19,000円、左官が18,800円らしい。これが実際にはそれぞれ14,888円、15,705円、16,000円まで減額されている、という主張だ。この額だと月20日計算で月収30万円ぐらい、だろうか。
これに比べて、サービス産業では、これほど条件は整っていないところも少なくないと思う。なかでもコンテンツ産業、特にアニメ業界なんかでは、現場のアニメーターの給料(というか、歩合給)が月額5~10万円、なんていう話も聞く。これではコンビニのアルバイト並だ。年齢構成やら業界の事情やらいろいろちがいはあるのだろうが、バランス感覚として釈然としないものがある。デジタルコンテンツ業界の現場スタッフを「デジタル土方」と呼んだ人がいたが、少なくとも「アニメ土方」についていえば、本物の土方のほうが労働条件として恵まれているかもしれない。
考えてみると、建設業界で労働条件の整備が進んだのは、公共事業の存在が影響しているように思われるがちがうだろうか。需要の総量という面、および価格モデルを示すという面で、公共事業があったからこそ、建設業の対GDP比率が先進国随一という現状に至ったのだ。たいへん冷たい表現で自分でも慄然とするが、相対的によい待遇で「ぬるま湯」を続けることは、建設業界の雇用を本来あるべき規模より肥大した状態に保つ結果につながっているように思う。とすると、無駄な公共事業は、二重の意味で罪作りだ。税金を無駄使いするという「罪」と、国民を非効率な産業に縛り付けるという「罪」だ。
雇用構造の転換については、90年代後半の構造改革論議のころからさんざんされていて、職種転換はいうほど容易ではないという有力な反論がある。もちろんその通りだが、だからといってこの先このままでいいのかい、というさらに有力な再反論を挙げておく。雇用構造の転換が難しいのであれば、建設業界の苦境からの脱出もまた、難しい。それとも「次のバブル」まで待とうというのだろうか。
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