情報財の計画経済と市場経済
ネットとメディアの融合まわりの議論があちこちで続いている。このあたりは賛否どちらの陣営にも専門家の方々がいていろいろディープな議論を展開しておられるので、私ごときが貢献できるとも思えないのだが、ただ傍観しているのもどうにも精神衛生上よくない。自分の専門分野に近い視点からなら多少は意味のあることがいえるかもしれないので、少しだけ書いてみる。
といっても、別に斬新な指摘だとか人をうならせる慧眼だとかいうわけではないので、そういうものは期待しないでいただきたい(してないか)。
気になっているのは、主にメディア側の人たちの間でよくみられる議論だ。メディア企業には国民の知る権利を守るという公共的価値を守る責務があり、したがって市場メカニズムはそれに必要な限りで排除されなければならない、といったたぐいのやつ。これがけっこうまかり通っている。この立場からは、ライブドアの堀江社長の「ニュースはアクセスランキングで重要性を決めればいい」みたいな発言は分が悪い(この「発言」については「ネットは新聞を殺すのかblog」からの引用)。メディアの公共的性格と崇高な責務を何と心得るか、というわけだ。
いろいろ例はあるだろうが、手元に2005年4月27日付朝日新聞夕刊がある。そこに宮台真司氏の文章が引用されていて、上記の立場をよく代弁しているようにみえたので、「メディアの人」ではないがこれを使うことにする。宮台氏は、ネットとメディアの融合によって「双方向化しても、「多数決じゃあ『欲望に応える』だけしか残らなくなる」、だが「多数決に還元できない『公共性』がジャーナリズムに要求されてる」という。だからプロのジャーナリストの役割が重要だ、と。
私は別に、堀江発言を擁護しようとは思わない。ただ、だめだと言い切ってしまう前にもうちょっと考えたほうがいいんじゃないの?といいたいわけだ。本当に「欲望に応える」だけしか残らないのか?「欲望」ってそんなにつまらないものだけなのか?とか。それに、この問題はライブドアや堀江社長といった固有名詞から切り離して考えるべき一般的な問題だろう。ここではあくまで一般論でいく。というわけなので、当該会社や個人を罵って溜飲を下げたい方は、そういうblogも有名どころを含めてあちこちにあるようだから、そちらに行ってやってもらいたい。
私の考えたのは、メディアに流れる情報を情報「財」ととらえて、経済学的に考えてみたらどうか、ということだ。経済学というのはよく金勘定ばかりと誤解されるが、本来の役割は社会の中における資源配分のよりよい方法の探究だ。情報も人間にとって有用という意味で「財」であり、そのよりよい配分(というか、伝達だなこの場合)のやり方は経済学的な考え方でとらえることができる。法を経済学的なアプローチで考える「法と経済学」という分野があるが、メディアも経済学的に考えていいと思う。
このセッティングで、上記の宮台氏のいわんとするところを解釈すると、情報財の「市場」が自由化されると皆が買いたい一部のものしか売られなくなり、小さいけれど重要なものが排除されてしまう、ということになる。いってみれば「市場の失敗」が起きるのだ。だから市場を「自由化」してはならず、これまで通り専門家の手に委ねなければならない、ということになろうか。
「市場の失敗」にもいろいろあるが、ここで関係しそうなものとしては、まず「外部効果」がありうる。その情報財が、実はその市場の中では値付けされない重要な価値をもっていて、その価値を勘案できればもっと高い「値」がついてもいいはずなのにそうならない場合だ。だから供給が減ってしまう、それが問題だということになる。それから「自然独占」もありうる。情報財は複製コストが安い、つまり限界費用が低いから自由競争に任せれば自然独占へと向かう、だから少数にとどめて管理する必要がある、と。
しかしここで考えなければならないのは、ではそのために、既存メディアの「寡占」を守らなければならないのかと、そもそも既存メディアがその役に「適任」なのかだ。
確かに外部効果はけっこうやっかいだ。環境問題や地球の裏側の人権問題など、われわれが日常関心をもちにくいテーマに関する情報は、あまり流れない。たとえばそういうテーマのテレビ番組にスポンサーがどんどんつくかといえばそうではないのが現実だろう。「公共性」の視点が必要というのは、まさにその通り。
しかしこの外部効果の問題は、実は「充分な需要がない」という需要サイドの問題と、「充分な供給がなされない」という供給サイドの問題の2つに分けられる。このうち供給サイドのほうは、実はコストの問題でもある。「理想的」な市場には摩擦がなく、売り手が提供したすべての財に価格がつき、マッチした買い手が見出される。売れ行きのいい一部のものしか取引されない状態が発生するとすれば、製造・流通のために必要なコストがその価格を上回り、市場に出てこない場合だ。
その意味では、インターネットの登場により、市場は一歩だけ上記の「理想」に近づいた。情報の非対称性の度合いが低くなり、取引のために必要な費用が減少したからだ。ネットの登場によって、情報財の「市場」の条件は「改善」した。
自然独占のほうも、実は事情が似ている。自然独占が成り立つのは、財が均質でどれをとっても同じ場合だ。だから規模の経済が働き、独占へと向かう。しかし情報財は、少なくとも今の日本のように発達した社会では、そうではない。好みは多様化し、細分化している。どこかの国のようにお仕着せの情報で満足せよ、とはいかないのだ。そうした中で、情報財の流通においてまだ既存メディアによる「寡占」が成立しているのは、財そのものの性質からくるというより、「ラストワンマイル問題」を含めたコストの要素が大きい。つまり技術的制約に起因する規模の経済だ(その意味では、これまで情報財の流通に関する限界費用は決して安くなかった、ともいえる)。それがネットの技術により大きく変わった。
起きたことはおおまかにいえば2つ。1つは情報財の「製造」と「流通」の分離だ。流通の中でも光ファイバーみたいな「インフラ部分」はまだ規模の経済がものをいうが、情報財を生産すること、およびインフラを使ってその流通のしくみづくりをすることについては、規模の経済が必ずしも働かなくなった。もう1つは情報財流通における物理的限界が大幅に緩和されたことだ。もう紙面の制約を気にする必要はない。質の問題は残るが、量的には情報は事実上流したいだけ流せる。だから生産者ではなく消費者が流通量を決めるようになる。プロダクト・アウトからマーケット・インへといえば経営学的か。
これにより何が起きたか。最近あちこちでいわれる「long tail」の議論がそれだ。ネットの発達によって取引コストが下がり、これまで市場に出回らなかったもの、買い手をみつけることができなかったものに買い手がみつかるようになった。だから一部の人にしか価値のわからないものも、市場に居場所を見つけることができるようになった。
情報財でも同じことだ。情報財における「long tail」は、人々の多様な関心がそれぞれに合った情報で満たされる可能性の増大を意味する。このあたり、アカデミックに実証されているかどうかは不勉強で知らないが、ビジネス的にはもはや「常識」レベルに近い印象がある(渡辺聡さんのblogを参照)。つまり、この限りにおいて、宮台発言は実情に合っていないということになる。
もちろん、外部効果によって本来あるべき水準より低い需要しかない類の情報財についてどうするかの問題は残っている。ここでもう一度当初の疑問に返ろう。ではそのために既存メディアの「寡占」を守らなければならないのか。そもそも既存メディアがその役に「適任」なのか。
比較的少数の既存メディアが情報財の流通を一手に握る状況は、このたとえでいえば計画経済だ。優秀な専門家が、愚かな一般大衆に、これが重要な情報だよとありがたくも教えてくださるわけだ。しかし歴史は、市場メカニズムを否定した計画経済がほぼ例外なく失敗したことを示している。問題は専門家たちが実はそれほど「優秀」ではなかったことと、計画の押し付け自体が人々のインセンティブを奪ったことだ。情報財はどうだろうか。既存メディアの方々がとても「優秀」だということは認めるが、もし情報財の市場化が進展することによって既存メディアの重みが低下することがあるとすれば、市場に比べて必ずしも優れているとはいえないことの傍証にはなるのではないか?それに、情報に対する人々の「受身」的な態度はこれまで問題になっていなかったか?ネットを経由して自ら情報を取りに行くことは、その意味では好ましい変化ではないのか?
宮台発言にみられるような立場には、どうも市民を信頼していないふしがある。市民が勝手に情報を選んだら、きっとみんなテレビのバラエティ番組みたいなニュースばかり見るにちがいないと、そう思っていないだろうか?「公共性」は市民の側には期待できない、だから高邁な理想に燃えるメディア企業が必要だと、そういっているように思えるが言いすぎだろうか?
もし市民がそれなりに信頼できるならば、情報財の市場経済化は、既存メディアにより「選別」された情報そのものを否定するわけではない。それは目利きによって選ばれた「ブランド」付きの情報であり、その重要性に関する情報の非対称性が低いという魅力がある。つまり、既存メディアに「本当に」優れた情報の選別眼があるなら、情報財の市場経済においてもその価値は失われないはずだ。ただし当然ながら、市場における既存メディアの「取り分」が小さくなれば、その分企業数が減ったり社員数が減ったり、給料が下がったりすることはあろう。それは既存メディアが「死ぬ」とかそういうことではない。ないでしょ?
もし、現在のような既存メディアによる情報財流通市場の寡占が必要とまでは主張しないなら、現在起きている状況を「メディアの公共性」といった面から憂える必要はない。既存メディアの価値を認めることと、さまざまな情報財が市場で自由にやりとりされることとは、矛盾しないからだ。誰も既存メディアの活動を禁じよなどといっているわけではない。
もし「寡占」が本当に必要なら、それなりの理屈を示してもらいたい。それに、既存メディアにその能力があることも。少なくとも現在、アクセスランキングで重要性を決めるメディア企業が1つや2つあったからといって、既存メディアの経営基盤が崩壊する状況にあるとは思えない(そんな事態を引き起こすものがあるとしたら、ライブドアよりはむしろGoogleニュースのほうが可能性が高い)。別に有名人を引き合いに出して援護射撃を期待するわけではないが、そのあたりは「ネットは新聞を殺すのかblog」の湯川氏もきちんと指摘しておられるので念のため。それに、既存メディアがその負うべき「公共性」に沿ったことをやっているかどうかについては、外からも、また内からも批判がある。こういう状況の下では、多少既存メディアの事業基盤がゆらいだとしても、代替的な選択肢(になるかもしれないもの)を持っておくほうが、より「安全」というものではないか。
そうやって考えてくると、既存メディア側の主張は、つまるところ現在享受しているパイの縮小や「特権的地位」の喪失がいやだといっているように聞こえる(考えてみれば、特権階級の出現は、計画経済の不可避の帰結、なのかもしれないな)。それは「公共性」といった高邁なる理念の問題ではなく、「メディア企業役職員の生活水準保障」の問題だ。
なんだかとても既視感がある構図といえなくもない。既得権のある人々の考えることはみな似通っているのだろうか。
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Comments
こんにちは。
とても説得力があって、冷静な議論だと思いました。ふだん、もやもやと考えていることが、近代経済学の基本ツールできちんと整理されていて助かります。酒飲み話のときに援用させていただきます。
既存メディアが「公共性」を声高にいうのは、既得権益を失うのが恐いからでしょうね。裏返せば、企業としての基盤の脆弱さをよく理解しているということです。無責任な社員としては、既得権益が将来は崩れることを前提に役員の方々には経営してもらわないと困るわけですが。
個人的には、いろいろ指摘される既存メディアの問題点は、市場競争にさらされることが一番の解決方法ではないでしょうか。理念を説いてもドラスティックには変化しないと思います。
例えば、いつか発表になることを追いかける内向きの競争に人的資源や資金を投入するのは、どんぶり勘定の経営だから許されるのでしょう。選挙の当打ち競争も、資金と労働力を投入するわりには各紙大差なく、商品の差別化になっているか疑問です。供給サイドのコスト競争をもっと促せば、内向きの競争を続けることが魅力的な商品を作るうえで効率的な資源配分なのかどうか、おのずと結論が出てくると思います。そのことが、社員の給与面も含めて、社会全体の適切な資源配分の実現に寄与することでしょう。
ただ、一つ疑問があります。情報財の市場を単一の市場として把握する限りにおいて山口さんの論理はすっと頭に入るのですが、新聞、テレビ、ネットの3種類は、広告も含めたパッケージとしての商品の性格が現状では異なりますよね。もちろん、新商品が誕生することで既存商品の市場が影響を受けたり、世代交代や技術変化で異なった市場が融合するということになるのでしょうが。
そのあたりはどう整理して理解すればいいのでしょうか?あるいは、単一市場モデルのままで説明できるのでしょうか?
Posted by: Marc | May 02, 2005 02:48 AM
Marcさん、コメントありがとうございます。
「酒飲み話」ね。ちょっとがっくりですな。学部の講義ぐらいには使えると思ったんですが…。ともあれお役に立てるならよしとしましょう。
さてご質問の件ですが、「市場」っていうのはあいまいな表現です。「財市場」っていえば幅広いし、「ミニバン市場」といえばごく狭いし。どちらも市場ですが、本文での使い方は、前者のほうです。「情報財」には新聞、ラジオ、テレビ、ネットとさまざまな形態がありますが、それは自動車市場の中のセダン、ワンボックス、ミニバン、オフロードみたいな分類に近いのでは。要するに、さまざまな商品が入り乱れ、あるものは伸び、あるものはすたれていくような市場です。それを前提として、本文のポイントは、財の生産手段が少数の「選ばれた」企業に事実上寡占されているか、それとも外からの参入がどんどんおきるような競争が行われているか、というところにあります。競争が行われていれば、それまでなかった新しいタイプの商品が生まれたとき、競争によって勢力図が変わっていくのは当然。企業がそれに対応して自らを変えていくのも当然。一方計画経済では、そんな面倒なことはできればしたくないですよね。
既存メディアがネットに目くじらたてる状況は、私の目には、銀行が消費者ローン会社の規制を求めたり、自動車会社が燃料電池車に文句つけたり(そんなことがあるかどうか知りませんが)しているのと同じように見えます。
Posted by: 山口 浩 | May 02, 2005 06:11 PM
山口様
ご返答ありがとうございました。
いやいや、「酒飲み話」と表現したのは、講義や記事などオフィシャルな場で山口さんの議論を根拠の明示なく借用してしまうと、山口さんの著作権を侵害してしまうので気をつけます、という意味です。「酒飲み話」ならあたかも自分の説明のように使っても許されるかな、と。気に障る表現だったらごめんなさい。そういうつもりではありません。
ちなみに、最近の銀行はむしろ消費者ローンを取り込もうとしているし、もちろん自動車会社は燃料電池車の開発に積極的ですね。
Posted by: Marc | May 02, 2005 06:31 PM
>ちなみに、最近の銀行はむしろ消費者ローンを取り込もうとしているし、もちろん自動車会社は燃料電池車の開発に積極的ですね。
そうです。だから既存メディアもネットの活用について、もっと本気で考えてはどうか、ということですね。自分たちのやり方がベストだと決め付けないで。
Posted by: 山口 浩 | May 02, 2005 09:39 PM
山口さん
毎度毎度ですが、またお借りして構いませんか?
※ちなみに、学部の講義でも十分使える素材だと思います。取り上げるまでの前提知識の整理でアップアップになってしまいそうですが・・・
Posted by: SW | May 02, 2005 09:52 PM
>だから既存メディアもネットの活用について、もっと本気で考えてはどうか、ということですね。
うーん。私の実感でいうと、いろいろやってみたけれど、どうも自分たちがやる分にはバラ色ではないなあ、という感じでしょうか。ネット自体の成長性ではなく、既存メディアがネット事業を行うことの限界とでもいいましょうか。日枝さんは別にして、自分たちのやり方がベストだとは思っていないと私は考えていますけれどね。
規制業種でずぶずぶの甘い経営をしている企業が、技術進歩や市場変化が激しい成長分野で競争力がある適切なビヘイビアをとれるものでしょうか? むしろ、適切なパートナーと手を組むのが正解なのでは?
Posted by: Marc | May 02, 2005 10:08 PM
SWさん
どうぞどうぞ。反響を教えていただけると助かります。学部生だと難しいですかね?うーん。
Marcさん
おっしゃるとおりです。自分たちの業界を脅かす新しい動きが出てきたときに、自分たちの会社ではなかなか消化できなければ、別の会社を立ち上げたり、他と組んだりしますよね。それができないと、外から「破壊的イノベーション」がやってきます。私は、大局的には既存メディア側からのアプローチのほうが有効ではないかと思っています。なんたって有力コンテンツを握ってますからね。期待してるんだけどなぁ。
Posted by: 山口 浩 | May 02, 2005 10:22 PM
Marcさん
横槍ですいません。
既存のプレイヤーが参入しがたいのは、コスト構造というか人件費構造がまず先に立っています。ものすごく簡単な比較として、代表的なネットの企業と既存のメディア企業の平均給与を比較してみてください。人が動かないのが良く分かります(笑
細かいテクニカルな議論や長期はともかく、目先はこの一点だけで説明してしまって良いと考えてます。
ただし、5年か10年か分からないですが、ターニングポイントが訪れる可能性は結構ありますよね。
山口さん
では、遠慮なくお借りします。
> 学部生だと難しいですかね?うーん。
私、学部で類似領域を山ほどやりました。金融行政、航空、製薬(特に認可)、犯罪取り締まり、福祉、郵便、通信、公害(特に移転や排出権など)etcetcといったところです。
基礎は一通りやった身として思いますが、本気でやると、普通はギブアップしてました。(私はゼミでじっくりやりました)
Posted by: SW | May 02, 2005 11:03 PM
>SWさん
ご指摘の通りで、私が「自分たちがやる分にはバラ色ではないな」と書いたのは、スキルだけではなく、「自分たちの(現行の)給与水準ではやれないな」という意味も込めています。
Posted by: Marc | May 03, 2005 11:28 AM