ハンズフリーでも危険だっていうなら
American Automobile Association(AAA:米国自動車協会)のシカゴ支部が、「運転中にハンズフリーの携帯電話を使用することは携帯電話を手に持って通話するのと同様に危険である」という調査結果を発表したそうだ (記事はこちら)。どちらでもドライバーの注意が運転から逸れることは同じであるとから、事故の危険をなくすには運転中に携帯電話を使わないことだ、と主張している由。
いやそりゃそうだろうけど。
National Highway Traffic Safety Administration(NHTSA:米国高速道路交通安全局)によると、様々な要因により運転者の気が散る行為は全事故の25%の原因になると推定されるのだそうだ。で、記事によると、AAA Chicagoの社会問題部長であるKris Lathan氏はこんなコメントをしているとのこと。
「ハンズフリーは使い勝手が良くなるだけで、安全性は高まらない。確かに運転者の手がハンドルから離れたり、視線が道路から外れることは危険性が増す。(ハンズフリーならそうした危険はないが)しかし、リスク要因の基本は(電話で話をすること自体で)運転者の注意が逸れることだ」
いやそれは確かにそうなのだが、「注意がそれる」ことというのを持ち出したのは、なかなか大胆だな。昔ラルフ・ネーダーだったか、「Unsafe at any speed」なんて本を書いていたが、ある意味それよりはるかに「踏み込んだ」姿勢、といえるかもしれない。
今の時点でAAAのサイトをみたがこのレポートは出ていないようので、主張が実際どんなものであるかはわからない。しかしもしこの主張が、「運転中にどんなかたちにせよ携帯電話の使用を禁ずるべきだ」という議論であるとしたら、「ちょっと待て」といいたくなる。ちょっと想像をめぐらせてみる。
つまりだ。問題は「運転者の注意がそれること」自体なのだ。何にせよ運転者の注意がそれることはいかんのだ。
ならば。
運転中に同乗者と会話をするのもだめだな。相手が「そこにいる」というだけで、それ以外は電話をしてるのと変わらないんだから。音楽やラジオを聞くなんかもってのほかだ。耳がそっちに集中してしまう。つまり意識も、だ。タバコを吸うのも危ないぞ。ライターに手を伸ばすなんざ電話を手で操作するのと変わらないではないか。同乗者同士の会話を聞いているのも同じ意味で充分に危険だから、車内では同乗者を含めて一切の会話を禁止するのが妥当だろう。静かにしていられない乳幼児は?運転していても、乳幼児が泣き出したら必ず注意がとられる。したがって乳幼児を乗せること自体が危険であり、睡眠薬を飲ませて眠らせていない限り乗せることを禁止すべきだ。いやしかし、そもそもしゃべっていなくても、同乗者がいること自体が気の散る原因になる。万全を期すなら同乗者自体を禁止するしかない。
いやしかし、それだけではまだ不充分だ。同乗者がいなければいいというものでもない。運転者自身が考え事をして注意がそれることも危険なのだ。しかしいったい、考え事をせずに運転せよといわれても、いったいどうすればいいのだ。人間は「考える葦」だ。我思う、故に我ありなのだ。考えることをやめ、運転する機械になれるものなのか。おそらく無理だ。ならばどうするか。正解はひとつしかない。「人間は運転してはならない」のだ。
…もとより極論、というか暴論だ。しかし、「運転者の注意がそれること」自体が問題なのだとしたら、どこからが暴論なのだろうか。車内の会話禁止ぐらいまではすぐに正当化できるぞ。人と肉声でしゃべるのはよくて電話を介してしゃべるのが悪いという理由はないだろう。ハンズフリーなら、通話の作業で注意が散ることはほぼないのだから。百歩譲って、仮に電話のほうが注意力散漫になりやすいとしても、それは、そこで一線を引くべき質的な差ではないはずだ。
こういう問題は、ひとつの側面からみるとどうもバランスを欠いた考えになりがちだと思う。もちろん「安全は何にも代えがたい」のだが、実際にはそのためにどこまでがまんするか、コストをかけるか、私たちの社会はけっこう冷静に価値判断をしている。歩行者を交通事故から完全に守るために、すべての横断歩道を歩道橋ないし地下通路にする、なんていう案で考えてみたらいい。ペースメーカー使用者への配慮のため、日本全国津々浦々、指定された通話スポット以外での携帯電話の使用は全面禁止、なんていう案はどうか。実際のところ、安全とコストは天秤にかけられている。安全と利便性もそうだ。つまり多くの場合、私たちが求めるべきなのは、「偏った完璧」よりも「バランスのとれた妥協」なのではないだろうか。
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Comments
やまぐちさん、こんにちわ、
そーなんですよね。ほんとうに「健康と安全のためには命を懸けていもいい」という状況が生まれつつありような気がしてなりません。
一体、法律や規制の整合性やら妥当性、相互矛盾を解決する方法や機関はないのかという気がしています。
Posted by: ひでき | May 17, 2005 11:07 AM
ひできさん、コメントありがとうございます。
まあこれはアメリカの状況ですし、別に規制するって決まったわけじゃないんでしょうから、この段階でどうこういうのは早いのかもしれません。
>一体、法律や規制の整合性やら妥当性、相互矛盾を解決する方法や機関はないのかという気がしています。
こういう「規制のデコボコ感」をみると、ああやっぱり社会は人間が動かしてるんだなぁ、と思ったりします。合理性だけじゃないんですね。個人の思いとか、そのときの風潮とか、そういうものの積み重ねなんだな、と。とすると、小さい声でも社会に向かって叫び続けることにも、少しは価値があるのか、と都合よく考えてみたりもして。
Posted by: 山口 浩 | May 17, 2005 12:23 PM
すいません。この記事の論点と違うことを書いてしまいますが。
助手席の同乗者は事故の危険性の共同体だから、会話をしているときも車の運行に注意しながら会話しているけど。
ケータイの相手はそれがわからないから、その分だけは危ない。
という話もあるそうです。
後ろのベビーシートに子供を乗せていると、急に泣き出したり騒ぎ出して危ないのも事実だったりします。
たぶんハンズフリーで会話するよりも危ない。
ただし子供を車に乗せて運ぶメリットは、ハンズフリーで会話するメリットよりも桁違いに高いので、リスク対効果で許容してしまうと。
Posted by: otsune | May 17, 2005 03:31 PM
otsuneさん、コメントありがとうございます。
こういうのって、最終的には価値観の問題なのだろうと思います。
メリット・デメリットの比較も、その人の価値観次第ですからね。
で、社会全体としてはどっちなんだろう、というところにはやはり興味があります。
ともあれ、たいへん参考になりました。
Posted by: 山口 浩 | May 18, 2005 12:47 AM