「希望格差社会」における「内なる希望の格差」
先日、「希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」の著者である山田昌弘教授の講演を聞く機会があった。内容は「パラサイト・シングルの時代」から「希望格差社会」への一連の流れをなぞるもの。実はどちらもちゃんとは読んでいないのだが、どちらも有名な本だから、話の本筋はまあ予想通り、といったところ。
とはいえ、生で話を聞くことの価値は、話を補強するサイドストーリーみたいなものとか、ちょっとしたところで垣間見える本音めいたものなんかにある。
以下はその中で印象に残ったことと、聞きながら思いついたこと。あけすけな表現が登場するので、その方面にセンシティブな方にはお勧めしない。
山田教授の話しぶりからは、若年層の「期待」の水準が「あるべきレベル」より上に上がってしまっていることへの問題意識のようなものが強く感じられた。「希望格差社会」では、社会階層が二分化し、「負け組」が希望を持てなくなる、という論調の印象が強かったのと比べて対照的のようにも思われる。似たようなことではあるのだが、講演の内容は、二分化自体よりも意識のありようを問題視している色彩が強いように感じられた。
こんなエピソードが紹介された(本に出ているエピソードなのかどうか知らない)。男性の上級国家公務員が結婚することになって、結婚相手と連れ立って新居となる公務員宿舎を見に行ったら、相手が「こんなところに住むのはいやだ」と泣き出したという。公務員宿舎は豪華ではないが、それなりの水準の住居だ。資金力のない新婚夫婦の住居としてさほど不満もなかろうに、結婚相手の女性は実家での生活水準が保てないと不満をもったというわけだ。これは親元で優雅に暮らしてきたパラサイトシングルの話ということになろうか。
しかし、ニートや引きこもり、いわゆる「負け犬」に関する話にもこれと似た論調を感じ取ることができた。就職先がなかなか決まらない若者にインタビューして、自分に対するイメージが高すぎると感じたり、引きこもりを自分のイメージが高すぎるゆえに失敗を恐れて引きこもる、と分析したり。いわゆる「負け犬」女性にインタビューしたときの話も、「王子様」がいつか迎えにくると信じているというかたちで紹介された。どうも、パラサイトシングル、ニート、引きこもり、負け犬などの間に共通の要素があると考えているようにみえる。つまり「実態にそぐわない高い期待」だ。それぞれの立場の方々からはいろいろな異論もあるだろうが、「期待と実態のギャップ」という共通点があるという指摘は、少なくとも私にとっては説得力のあるものに思える。
引きこもりは日本の特徴的な現象で、最近は韓国でもみられるそうだが、世界的には珍しい由。「親が面倒をみる文化」がそれを可能にしているとのことではあるが、そもそも自分の価値が見出されない、努力が報われないと「感じた」ときに発生する、と分析している。前近代の社会では宗教やコミュニティが来世の報いを保証し、現代アメリカのローワーミドルクラスも宗教的生活によりどころを求める。ヨーロッパでは階層社会がもともとあるので希望の水準が実際の可能性からかけはなれていない。これに対して日本の場合は意識が総中流化しており、他に救うべき価値観もないために問題が表面化すると。
この点も、引きこもりだけでなく、一般化できるのかもしれない。自分に期待レベルに沿った可能性をもてない状況で、何によりどころを求めるかが問題となるわけだ。人はパンのみにて、というのは他の話だが、要するになんらかのよりどころが必要ということだ。日本では宗教が助けにならず、まだ総中流意識の残滓が残っているため、「現実とかけ離れた夢」によりどころを求める、あるいは求めざるを得なくなる。ということは、ひょっとすると希望の「格差」とは、人によって希望に格差があるという要素もさることながら、ひとりひとりの中で、「このくらいは欲しい」という希望と、「このくらいなら実現可能」という希望の間に格差ができてしまった、という要素もあるのかもしれない。いってみれば、「内なる希望の格差」だ。
山田教授は解決策に「うまい手はない」という。考えられるのは所得と職の再配分、カウンセリングや自立支援、生活保障などだろうがこれだけではだめで、希望の持てるしくみ、努力が報いられると「感じられる」しくみが必要とのこと。これが難しいということか。なんとも救いがない話だ。政府の審議会委員なんかもやっているわけだから、もう少し前向きの話があってもよさそうなものだ、とは思う。以前、本サイトの「希望格差社会と不幸の『発見』」という文章で、希望格差社会とは自分が不幸であることを発見してしまった人々が多くいる社会であり、解決のためにはおかれた状況の中で不幸ではなく「幸福」を発見する必要がある、といったようなことを書いた。ここでの「幸福」は、「身の丈」に合っていて、そこそこ実現可能性があるものでなければならない。今回の講演内容は、その点で私の考えとある程度整合的なものであるように思われたのだが、こうした「希望の修正」も難しいということだろうか。私としては思うところもないではないが、別の機会に書いてみたい。
本筋と離れるが、興味深かったのは、結婚に関する最近のデータで、フリーター男性だけでなく、フリーター女性も結婚しにくいという話。近年は男性側も専業主婦を求めておらず、結婚しても働いて欲しいのだそうで、フリーター女性と結婚するのは生活の不安があると感じる、ということらしい。「専業主婦になりたい女性」のほうが「専業主婦を求める男性」より多いのだ、という話だった。女性の中で自分のキャリアを追求したい人と専業主婦になりたい人のどちらが多いかわからないが、まあこういう人がいるのも別におかしいことではないだろう。外で働きたい人にそのチャンスがあるのも大事だが、家庭にいたいという人にもそのチャンスは必要だ。どちらにせよ問題はミスマッチにある、というのは上記の本筋の話と共通しているかもしれない。
※2005/6/18追記
念のため。上記は、高すぎる期待を下げさえすれば問題は解決する、といっているわけではない。社会や制度のあり方の中で変えなければならないことがたくさんあるのは当然のこと。ただそうした「外部」だけではなくて、人間の「内部」も変わらないと難しい、ということだ。「内部」のほうは、政策対応がなかなか難しいが、「外部」の改革と併せてやっていかなければならないのだろう。「時が解決する」という要素もきっとあると思うが。
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Comments
山口浩さん、こんにちは、
なるほどぉ、という感じです。自己イメージが高くなりすぎた若者という問題は、10年から20年前の米国の若者にそういう傾向があったような気がします。これは、かなり私的な交流の感想なのですが。
なんというか、この身の丈にあった希望というのがなんなのか、ということだと思われます。そもそも、まわりの人間の「希望」に合わせて自分の「希望」のレベルも決定されるのだと感じます。右肩あがりの社会においては、みな「希望」や「夢」を大きく持つことが奨励され、同じ教室の中で、あるいは職場の中で相手と自分を比べて自分の「希望」が高くなっていくように感じます。逆に、現在のような状況では、人々は低く、低く希望のレベルを設定していくものなのではないでしょうか?ちょうど、土地の価格などの期待形成と似ていると思います。あ、って、経済学の分野は山口浩さんのご専門なので、逆にこの「希望」バブルの形成のされ方についてご意見を伺いたいです。
そして、私が一番悲しいのは、この「希望」の形成の山であったのがちょうど私と同年輩---「新人類」と呼ばれた世代---ではないかということです。さまざまな昨今の事件を見ていると犯人がどうも私の年齢の前後というのが非常に多いように感じています。これもまた検証できていませんが...
Posted by: ひでき | June 17, 2005 04:17 PM
「内なる希望格差」にすくんでしまったのがニートや引きこもりだとすると、「内なる希望格差」から逃れることが目的化しているかのような若者もいるようにみえます。
たとえば、まるでRPGの主人公のように、「xx歳までにAAの学位を取り、次は法科大学院に行き、BBの資格を取って...あ、CCもやっておいた方がいいですかね?」みたいな。こっちがあきれて「いいんだけど、それで何したいの?」などと問うと、非常に心外そうな顔されたり逆ギレされたり内心「こういうスキルのないオヤジにはなりたくない」と思っているであろう事がありありと判る顔をされたり。
わたしは新人類世代の下の方ですが、あまりこの辺刺激すると今度は「結局よすさんみたいに就職楽だった人には判んないですっ」とか勝手にまとめられることもあります。難儀なことです。
Posted by: よす | June 17, 2005 05:37 PM
コメントありがとうございます。
ひできさん
山田教授のいわんとするところは、社会が変わってしまったのに、人々の心や社会のしくみ自体が対応していない、ということのようです。慣性みたいなものが働くのではないか、というのは、私の想像ですが。
よすさん
資格を「道具」として使いこなせれば問題ないんでしょうけどね。「目的」やら「生きがい」みたいになっちゃうとそれはそれで問題ありなんでしょうね。山田教授は、挑戦するたびに失敗して、挑戦の意欲自体をなくしてしまった人たちのことを心配されているようでした。
Posted by: 山口 浩 | June 17, 2005 10:35 PM