続編の作り方:各論(2)Star Warsシリーズ
「続編の作り方」シリーズ。今回は各論で、「エピソード3 シスの復讐」が公開間近の「スター・ウォーズ」シリーズ。
シリーズもの映画の代表格といってもよいかもしれない。今回の「エピソード3 シスの復讐」で、シリーズ6本が1つにつながる。有名かつ期待度も高いゆえにいろいろ悪くいう人もいるようだが、それも含めて人気のうち。まあここはひとまず楽しんだほうがトクだ。(Wikipediaによる解説はこちら)
さて本論。今回テーマとなるのは、状況変化に対応する「柔軟性」だ。「スター・ウォーズ」シリーズを一連のプロジェクトとしてみるとき、そこで重要なポイントとなっているのはこの「柔軟性」ではないか、と思う。
もともと大きな物語の一部として企画された第1作の「スター・ウォーズ」以来、各作品は独立した作品であると同時に、シリーズの一部としての役割を意識したものとして製作されてきた。よくある続編ものの多くが、いったん完結した物語に無理やり続きを加えているのとは明確に異なる。「007」シリーズや「男はつらいよ」のようなものもシリーズ化を前提とした作品だが、これらは各作品が独立していて、大きな物語の一部という位置づけではない。では「ハリー・ポッター」シリーズはどうか?確かに当初から続編を前提としているし、物語自体もつながりを意識したつくりになっている。しかしこれは別に原作小説がある。少なくともこれまでの「ハリー・ポッター」映画は、原作にほぼ沿ったつくりとなっているから、映画制作の面での柔軟性を意識することは少ないように思う。
まずは、6つの作品とその公開年をチェック。
1977 「スター・ウォーズ」
1980 「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」
1983 「スター・ウォーズ/ジェダイの復讐」
1999 「スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス」
2002 「スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃」
2005 「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」
※1983年公開のエピソード6は、現在は「ジェダイの帰還」という邦題がついていて、確かに原題は公開当時から「Return of Jedi」だったのだが、、日本公開当時の邦題は「ジェダイの復讐」だった。原題ももともと「Revenge of Jedi」だったという解説がこちらにある。ここでは特段の事情がない限り当時の邦題でいく。
ここでいう、「スター・ウォーズ」シリーズにおける「柔軟性」とは、物語の構想やら焦点やらといったさまざまな部分を状況に応じて柔軟に変えていくアプローチだ。各作品の公開年をみると、1983年の「ジェダイの復讐」から「1999年の「ファントム・メナス」までの16年間が大きくあいており、この間に映画をめぐる状況は大きく変化した。またもっと短期的にみても、当初の目論見とはちがった方向に事態が展開することはある。そういったさまざまな状況の変化に「スター・ウォーズ」シリーズは柔軟に対応しており、それが人気の理由の1要素になっているのではないか、と考えられるのだ。
いくつか例を挙げる。
(1)物語全体の構成
確かもともとこの物語は全部で9つのエピソードに分かれている、とされていた。うろ覚えだが、ルーカス監督がインタビューで、まずエピソード4~6を作り、次に1~3に行って、最後に7~9を作る、と語っているのを見た記憶がある。しかし現在、映画は今回の「エピソード3 シスの復讐」で終わりだといわれている。ファンの間ではまだ期待する声も大きいようだが(実際ありえない話ではないだろうが)、まあ今のところはこれで終わり、ということだ。「インディ・ジョーンズ」シリーズなどもあって時間がたってしまった、ということのようだが、ある意味でまあいい線なのかもしれない。何せ1本あたり製作費100億円とかのプロジェクトだ。同じモチーフであと3本となればさすがにリスクが大きいだろう。
最近の映画では続編の可能性を意識した謎かけ的な描写を残しておく場合があるようだが、逆にいざというとき自然に終われるようにしておくのもカギ、なのかもしれない。
(2)登場人物
最初に公開された「スター・ウォーズ」は、明らかにルークが主人公だった。個性的な相棒たちと共にお姫様を救い、悪の権化と戦う大冒険、という定番の活劇ストーリーだ。当初から全作品そのままのテイストでいくつもりではまさかなかっただろうが、少なくとも当初はそうした色彩が強かった。いや主人公がルークであることは「ジェダイの復讐」まで変わらないのだが、「帝国の逆襲」以降、物語の力点は多少だが明らかにルークを離れた(これ以外にヒット作ないもんなぁマーク・ハミル)。力点が一部移された先は2人。1人はダース・ベイダー、もう1人はハン・ソロだ。
ダース・ベイダーは、ルークの父と設定された時点で、このシリーズ全体が「ダース・ベイダーの物語」として構成されることとなった。優れた資質でジェダイの騎士となりながら、悪の道に走って共和国を崩壊に導き、そして最後には改心して皇帝を葬り平和をもたらす「運命の人」のドラマ、というわけだ。当初からこういう意図だったのかどうかはわからないが、「スター・ウォーズ」の公開後、ダース・ベイダーが「意外に」人気を博したことで、ダース・ベイダーとルークの親子関係にスポットをあてる展開がより魅力的なものとなったとはいえるだろう。「水戸黄門」であこぎな商売をする越後屋が実は黄門様のご落胤だった、なんていう設定は考えられないだろう。ダース・ベイダーは悪役であっても充分に魅力的だったからできたのだ。
ハン・ソロのほうは、想像だが、偶然に近いものだったのではないか。脇役としてのハン・ソロは、もちろんたいへん魅力的ではあったが、「主役を食うべき存在」としては位置づけられていなかったと思う。これはやはりハリソン・フォード個人の魅力といわざるを得ない。彼の人気をうまく取り入れたことは、「帝国の逆襲」のドラマ性を高めており、この作品が今でもファンの高い人気を集めているということと強く関係していると思う。どんな登場人物が人気を集めるか事前にはわかりにくい以上、脇役をいかに作りこんでおくかはけっこう重要なのかもしれない。
ちなみに登場人物ということでいうと、77年の「スター・ウォーズ」の主だった登場人物には黒人がいないが、80年の「帝国の逆襲」ではビリー・ディー・ウィリアムスがランド・カルリシアン男爵役で登場する。このあたりも時代の変化を柔軟に取り入れている例といえなくもない。
(3)映画表現に対する社会の受容
「スター・ウォーズ」が公開された1977年当時、戦いを描いたSF映画で人間が死ぬシーンを描くことは、それほど問題とはみなされなかった。冒頭、反乱軍の船にダース・ベイダーたちが乗り込んでくるシーンでも、反乱軍兵士たちはばったばったと撃ち殺される。その状況は、1983年の「ジェダイの復讐」まではほぼ変わらない。しかし1999年の「ファントム・メナス」では敵側の兵士はドロイドとなっており、また「クローンの攻撃」ではクローン兵士が登場する。
アメリカで映画のレーティング制度が始まったのは1968年だった(参考)。77年当時だと、「G (全年齢向け)」「PG(全年齢向けだが親のガイダンスを推奨)」「R(16歳未満は親同伴。後に17歳)」「X(17歳未満は禁止)」の4段階だった。1983年の「ジェダイの復讐」あたりでもほぼ同じだったろう。「スター・ウォーズ」シリーズは、2002年の「クローンの攻撃」まで一貫して「PG」だったが、同じ「PG」でも、その基準がおそらく変化したのだと思う。つまり、16年の間に、残酷な映画表現に対するアメリカ社会の受容度は大きく変化し、人がばたばたと死ぬシーンは「子供の見ていいもの」としては許容されなくなっているのだ。
人間が死ぬシーンはまずくとも、ドロイドやクローンなら許容されるということだろうか。クローン人間は生物学的にはまぎれもなく人間のはずだが、アメリカ人の価値観の中では「完全な人間ではない」という意識なのかもしれない(レプリカント、ってことかね)。ともかく、人間が死ぬシーンを極力出さないために、ドロイドやクローンという設定が必要だったのだろう。こうした努力にも関わらず、「エピソード3」ではとうとうPG13 になってしまったが、まあここまでくれば、親がまず見に行きたいだろうから、それほど興行上の問題にはならないのかもしれない。
(4)過去の「書き換え」
「ジェダイの復讐」でアナキン・スカイウォーカーを演じたのはセバスチャン・ショー(Sebastian Shaw)という俳優だった(ちなみに「スター・ウォーズ」から「ジェダイの復讐」まで、ダースベイダーを演じたのはデビッド・プラウズ(David Prowse))。しかし「クローンの攻撃」で、アナキン役がヘイデン・クリステンセンとなった後、市販されているビデオやDVDの「ジェダイの帰還」のアナキンの顔はヘイデン・クリステンセンに入れ替えられている。物語が長い期間をかけて進展していくにつれ、こうした「矛盾」や「齟齬」はどうしても避けられない。放置するのもひとつの考え方だが、これを整理することで、シリーズ全体としての一貫性を高め、価値を引き上げることができるのかもしれない。
このあたりは、日本の場合は元の作品の出演者などとの権利調整が難しいところだろう。ハリウッドならではの力ワザ、といえなくもない。
(5)物語の「背景」の精緻化
当初の「スター・ウォーズ」は、きわめて明快な勧善懲悪ものだった。悪の帝国に立ち向かう正義の戦士たちだ。手元に77年日本公開当時のパンフレットがあるが、そこには、ルーカス監督のことばとして、「クラシックなスペース・ファンタジー」「われわれ誰もの中にある、子供心のために作られた映画」といった表現がある。「帝国の逆襲」以降、ダース・ベイダーとルークの親子の物語なんかが入ってきたりもするが、基本的に善悪の対立という大きな構図は「ジェダイの復讐」までほぼ変わらない。しかし「エピソード1」以降、物語はさらに複雑かつ精緻なものとなっている。そもそも物語のきっかけは銀河共和国のメンバーである通商連合に対する課税問題。課税問題だ。正義でも何でもないのだ。帝国台頭の背景にあるのも共和国における停滞と腐敗である。「対話と停滞」か「力と効率」か。全体として、一見善悪が分かれているように見えながら、よく考えるとわからなくなるという、ある意味きわめて「現実味」のある設定だ。
なぜこうした複雑な設定を必要としたか?おそらく「観客」の側がそれを求めたからだ。かつて「少年少女」だったファン層も、今や成熟した親の世代となった。今の観客は、かつてのような単純な勧善懲悪では満足できなくなっているのだろう。それに、悪役であったはずのダース・ベイダーがドラマの「主人公」となっているのだ。なぜそうなったのか、そうならざるを得なかったのか。大人を納得させる説明が必要なのだろう。逆にこうした要素を取り入れることで、かつての少年少女ファンたちを再び(子供連れで)ひきつけることに成功しているのではないか。
考えてみると、最初からこうした複雑な設定だと、後でいろいろ作りこむのが難しくなりそうだ。その意味で、続編を考えるなら、初めはシンプルに作っておくほうがいいのかもしれない。
最後に自分のためのメモとして、各作品の製作費。ネットに出ていたものだから、正確かどうか自分で確かめたわけではないが。
1977 「スター・ウォーズ」 850万ドル
1980 「スター・ウォーズ / 帝国の逆襲」 2,500万ドル
1983 「スター・ウォーズ / ジェダイの復讐」 3,250万ドル
1999 「スター・ウォーズ エピソード1 / ファントム・メナス」 1億1,500万ドル
2002 「スター・ウォーズ エピソード2 / クローンの攻撃」 1億2,000万ドル
2005 「スター・ウォーズ エピソード3 / シスの復讐」 ?
※2005/7/10追記
もう1つ思い出した。「ファントム・メナス」で、アミダラ女王が「選挙」で選ばれたというセリフに驚愕したのは私だけだろうか。王を選挙で選ぶという発想は、まあありえないことはないかもしれないが、けっこう不自然だ。旧三部作における元老院議員であったレイア姫は、セリフをすべてチェックしたわけではないが、「身分の高い人」、「姫として生まれついた人」として描かれていた印象がある。そもそも、つまり、16年間の空白期間のうちに、映画における「politically collect」の内容が変化したのだ。もはや、身分制を前提とした、「女王となるべくして生まれついた特別な人」による統治というのは、「善良な星」の持つべき政治体制として適切ではないものとなったのだろう。この分だと、レイア姫も選挙で「姫」の地位についた、ということになったのかもしれない。
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