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September 24, 2005

自分の中の「子ども」

客観的には「不惑」と呼ばれる年齢に達しているわけだが、自分で本当に「子ども」だな、と思うことがある。

ある朝、青山のやや奥まったあたりで、とあるマンションの前を通りかかったと思っていただきたい。マンションの前には黒塗りの自動車が停まっていた。俗に言う「重役出勤」の時間だ。マンションの中から、紙袋を持った、いかにも重役然とした男性が出てきた瞬間、車の中からは運転手氏が転げ出るように飛び出してきた。

重役然氏は私より10~15歳上ぐらいに見えた。運転手氏は、それよりさらに年上、おそらくは60歳を超えていると思しき、これも男性だ。重役然氏の前で直角おじぎをして、紙袋をうやうやしく受け取り、車のドアを開ける。重役然氏は鷹揚に「ん」とうなずき、よっこらしょと車に乗り込む。運転手氏は小走りで車に乗り込み、やがて車は静かに動き出す。全部で10秒もかからなかったような気がする。

このあたりではよくある光景なんだろうが、私としては強烈にヤダ!と思った。

「ん」がだ。

運転手氏の境遇はよくわからないが、職務を一生懸命にやっているのだろうことはわかる。そうしなければクビになるというものでもないのだろうが、そうまでしてでも守りたいものがあるのかもしれない。私がもしそういう立場に立たされたら、かっこ悪いと思いながらも、やはりそうするだろう。その意味で、「共感」できる部分はある。

では重役然氏のほうはどうか。重役然氏の立場に立ったところを想像してみた。お前はああいうふうに、運転手さんにぺこぺこされたときに「ん」で返せる人間になりたいか?と。「否!」と即座に心の声が叫ぶ。偽善でも何でもなく、生理的に嫌だ。たとえばレストランでウェイターにうやうやしく接してもらうのは(そういう場所にはめったに行かないが)それほど気にならない。それとどこがちがうのか、自分でもうまく説明できない。「生理的」に嫌、ということだ。子どものころに見たテレビドラマとかで、いかにもえらそうにふるまう大人を見て抱いた嫌悪感がそのまま残っているような感じがする。

ひょっとしたら、重役然氏も、すすんでそうしているのではないのかもしれない。運転手氏はぺこぺこしてうやうやしく接することで、「これでクビにはならないだろう」と安心して職務に取り組めると思っていたとする。重役然氏はその心理を慮って、あえて「ん」と返しているのかもしれない。「大人の対応」というわけだ。でも。仮にそうだとしても、私ならいたたまれなくなるだろう。どうかやめてくださいと頼むような気がする。

こういうとき、大人になるっていうことは、あの場で「ん」と返せるようになるということかも、などと思ったりする。自分の立場にふさわしいふるまい(なのかどうか知らないが)をできるようになるというのは、大人の条件のような気もするし。

もしそうなら、私は、自分が「子ども」で本当によかった、と思う。

ま、「重役」の立場に立ったらどうしようなんて心配は無用だろうが。

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