ネットのせいにするな、という話
2005年9月9日付の日本経済新聞朝刊コラム「春秋」が、朝日新聞の虚偽メモ問題をとりあげていた。「痛みと自戒は同様」「新聞報道の足元を見直したい」とのコメントは真摯なものであろうと受け止める。ぜひよろしくお願いしたい。
しかし、もしそうなら、ちょっとこれはいかがなものか、と思った箇所がある。
気になったのはこのくだりだ。
「不確かな情報や根拠のないうわさが寸刻を競って飛び交うネット社会の土壌が、一記者の過ちにつながったのなら事態は深刻だ」
おいおいちょっと待て。なぜここに「ネット社会」が出てくる。
今回の事件に関しては、一般的な記事をいくつか拾い読みしただけだが、どこにも「ネット」という文字は出てこなかった。事件のおきた経緯については、極東ブログにコンパクトな記述があったので引用する(マスコミのサイトにはどうしてこういうふうにまとまったものがなかったのか。それ自体問題だと思う)。
1 東京の朝日新聞政治部から長野総局長に依頼があった。
2 依頼の内容は「八月中旬に亀井・田中が会っていた」について情報が欲しい。
3 依頼は長野総局からN記者に渡された。依頼の形式は不明。
4 N記者は田中知事を取材できるチャンスがあったのにしなかった。
5 N記者は”虚偽メモ”をメールで、長野総局長、県政キャップ、政治部記者に送った。
これがおおむね正しいとして、これを前提とすると、この経緯のどこに「不確かな情報や根拠のないうわさが寸刻を競って飛び交うネット社会」が関係するんだ?まさか「”虚偽メモ”をメールで」の部分じゃないよね。政治部の情報ネタがネットだったとか?だったら取材して確かめればいいじゃん。N記者がネットでガセをつかまされた?だったら取材して確かめればいいじゃん。N記者が「不確かな情報や根拠のないうわさが寸刻を競って飛び交うネット社会」の悪風に染まった?でも記者なんでしょ?だったら取材すればいいじゃん。要するに、問題はネット云々じゃなくて、取材をしなかったこと、あるいは社員教育やらチェック体制やらに不備があったことだ。何にせよ、ここでネットを持ち出すのはスジちがいではないか。
そもそも「不確かな情報や根拠のないうわさが」「飛び交う」のは、ネット社会の成立以前から当たり前にあったことだ。新聞記者というのは、そうした中から事実を求めて取材を行うものだと思っていたがちがうのか?ネット社会になって変わったのは、上記の表現の中では「寸刻を競って」の部分だ。ひょっとしたらこの記者が他社に先を越されないようあせって虚偽メモを作成したのかもしれない。しかしそれは「ネット社会」のせいなのか?ちがう。他社の記者もネット社会の中にいるのだから、原因はネット社会にではなくその記者、ないしその属する新聞社にある。「不確かな情報や根拠のないうわさが飛び交うネット社会のせいで前途有望な青年記者が過ちを」とでもいうのか?ちがう。情報入手・伝達手段は関係ない。取材をするか、しないかだ。
このコラムは、こう結ばれている。
「スピードと利便でネットの影響力が広がり続けるなか、民主主義を支えてきた新聞報道の足元を見直したい」
この文章の前半は本来不要だ。これでは、全体として、ネットが記者の道を誤らせた悪者、スピードと利便のために取材を怠る記者を作ったのはネットだとでもいわんばかりの論調にみえてしまうではないか。まさかそんなこと、本気で考えちゃいないよね?この問題は、朝日に限らず、ネット普及のはるか以前から新聞報道が業病のように抱えてきた問題であったことをお忘れか。ネットの影響力が増そうと減ろうとまったく関係なく、取材の重要性を忘れた新聞社の諸氏は「足元を見直」さなければならないのだ。
上記の極東ブログの記事は、問題の記者が「トカゲのしっぽ」扱いされた可能性があるのではと指摘している。私には事情を知る由もないし、finalvent氏の論理にはうまく理解できないところもなくはないが、少なくともいわんとするところはわかるし、こうした疑問を抱く余地がありうるだろうという一般論には納得感がある。「読者や社会の信頼」を回復したいなら、ぜひ「足元を見直し」て真相究明にとりくんでいただきたい。他の事件に比べてしつこいな、といわれるぐらいに。
The comments to this entry are closed.
Comments