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October 15, 2005

入試問題には使ってほしくない天声人語

「天声人語」は、いうまでもないが朝日新聞朝刊1面のコラムだ。よく大学入試に出題されるとかで、朝日新聞のウリの1つになっている。簡潔かつ平易に書かれた文章は読みやすく、しかもしっかりと本質をとらえている。読んでいて「ああなるほど」と納得したり、「へえそうなのか」と感心したり。

しかしそういうものばかりでもないな、という話を以下つらつらと。

10月14日付の天声人語だが、ノーベル経済学賞の話だ。2005年のノーベル経済学賞はロバート・オーマンとトーマス・シェリング、と発表されたのは、つい最近のことだ。受賞理由は

"for having enhanced our understanding of conflict and cooperation through game-theory analysis"

とある。確かに、「○○の発見」とか、「○○を初めて開発」とかみたいに、ひとことで説明するのはちょっと難しい内容だ。ゲーム理論そのものを初めて提唱したわけではないし、そもそもゲーム理論そのものも、一般にはなかなか理解されにくい。スペースの限られた天声人語できちんと理解できるように説明するのはたいへんだろう。

しかし、だ。

だからといって、「囚人のジレンマ」を例に出すのはどんなもんかね。確かにゲーム理論の典型的な応用例だが、今回受賞の2氏が唱えたわけでもないし、紹介された基本例では「競争」はともかく「協力」の要素がないではないか。「じゃあお前がやってみろ」といわれると困るが、わざわざミスリーディングな内容を書くのもどうかと思う。

いやそれよりももっと気になるところがある。

文章の後半で、「戦略」に関するくだりがある。こんな感じ。

もう一人の受賞者、トーマス・シェリング米メリーランド大教授は冷戦中にはゲーム理論を安保・軍拡問題に応用した。戦略研究の古典だという
戦略や戦略的嗜好といった言葉が人をひきつける力をもっているのを、竹田さんも認める。しかし、そのプラスのイメージだけに目を向けることには批判的だ。確かに国にも企業にも戦略は必要だが、戦略だらけでも息苦しい。

「竹田さん」というのは、このコラム著者がゲーム理論を勉強するために読んだ「ゲーム理論を読みとく」の著者である法政大学経済学部教授の竹田茂夫氏のことだ。私はこの本を読んだことはないが、他の著作の傾向からいわゆる「マル経」方面の人であろうと想像している。この本については「孤高の社会学日記」に「ゲーム理論批判の本」とコメントされていた。コラムではこの本を引き合いに出して、「戦略」についてコメントしているわけだ。ゲーム理論の説明にこの本を引っ張り出してきた時点ですでにある「色彩」を帯びているわけだが、まあそれはおいといて。

上記の引用部分、一読して、二読して、三回読んでもまだわからない。いったい何がいいたいのか。ノーベル経済学賞のどこにけちをつけたいのか。なんて白々しく書くまでもない。このくだりの意図ははっきりしている。コラムの著者にとっては、ノーベル経済学賞もゲーム理論もどうだっていいのだ。それは本題ではない。

本題は、「戦略」だ。これには、この文章にはひとこともふれられていない文脈がある。「天声人語」欄の上、一面トップに出ている「楽天、TBSに統合提案」だ。楽天の三木谷社長は「楽天の株式取得は戦略的な投資」と語ったそうだが(参考記事)、この件をふまえていると考えるのが自然だろう。「確かに国にも企業にも戦略は必要だが」のところで唐突に出てきた「企業」は明らかに楽天を指している。要するにこのコラムは、楽天を批判しているわけだ。「戦略だらけでも息苦しい」と。間接的に。わかりにくい表現で。

「楽天、TBSに統合提案」の件はゲーム理論となんら関係がないのに、ただ批判するためだけにネタとして引き合いに出しているわけだ。これまたミスリーディングであるだけでなく、ノーベル経済学賞受賞の両氏に対して失礼だとも思う。

本題に戻すと、このような文体は、実は「天声人語」にはけっこうみられる。Aのことを語っているとみせて、その実本題はBであるというようなスタイルだ。たいていは、最後の段落で突然話題を変える。それまでの議論の文脈を引きずることによって、本題であるテーマに対して「色付け」をする手法だ。今回のはそれよりもっとひどくて、本題であるテーマは「戦略」ということば以外まったく登場しない。

私の記憶が正しければ、このようなやり方は、学校でエッセイや小論文を書く際には、一般的には悪い手法とされると思う。学校で教えるのは言いたいことを簡潔に平易に表現するべき文章の書き方であり、回りくどい表現は読み手の理解を妨げるからだ。「プロのテクニック」のつもりなのかもしれないが、今回の文章は、それだけでは完結せず意味すらわからないという点でも、はっきりいって悪文だ。まさかと思うが、こういう文章を入試問題に出したりはしないでもらいたいな。「悪い文章」の事例として使うならともかく。

そもそも朝日新聞は何に「遠慮」してこんな婉曲な表現を使っているのだろうか。これではまるで「権力に弾圧された報道人がひそかに体制批判のメッセージを埋め込んだコラム」といった風情ではないか。楽天を批判したければ堂々と批判すればいい。誰も逮捕しに来たりはしない。どうせ他の記事では、ライブドアのときと同じく批判色全開のキャンペーンを張っているのだ。今さら隠す必要などないではないか。

まさか、ひょっとして「次の投資対象としてテレビ朝日に目をつけられたくない」からとか?それなら心配はいらない。買収の対象となるメディア企業は、その言論の内容ではなく、財務内容によって決定されるからだ。もし買収が心配なら、気をつけるべきはコラムの内容ではなく、自社の財務構造なので、そこんとこよろしく。

楽天の経営統合提案をそれに対するTBS側の反応、マスコミの論調などについてはいろいろ書きたいこともあるが、それはまた別途。またぞろ繰り返される図式に「なんだかなぁもう」といった感じだが。

※2005/11/30追記
上記の竹田教授のご高説だが、たとえていうと、こういう感じのことなのではないか。

「はさみは欠陥のある刃物である。なぜなら、紙を丸く切り抜くことができないからである。」

使えない領域にもっていって「ほら、使えないじゃん」というのは、ちょっと大人気ないような気が。マルクス経済学だって、現実の国家経済運営には使えなかったんだからね。もちろん、包丁で紙を丸く切り抜こうとする人たちがけっこういるせいでもあるんだろうが。

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Comments

v(*'-^*)-☆
ったく、その通り。

Posted by: でんすけ | October 15, 2005 04:08 PM

でんすけさん、コメントありがとうございます。

Posted by: 山口 浩 | October 16, 2005 01:22 AM

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