« 少年犯罪より成人の犯罪のほうが問題だと思う | Main | どっちが先か、じゃないだろう »

November 13, 2005

「墓標」としてのブログ

ちょっと前にこのサイトで「Virtual Property」という論文をとりあげたのだが、その中にこんなくだりがあった。

少し長めだが引用する。

"The question of whether online accounts are property has immediate relevance. A growing dispute is forming over who owns the online accounts of deceased soldiers in the Iraq war. The families of soldiers claim that the accounts – which often contain pictures and journals – are the property of the decedent’s estate. The ISPs claim that the accounts cannot be released for privacy reasons – if property claims are able to touch online accounts, ISPs assert, the value of privacy that people find valuable in such accounts will be eliminated. Whether the accounts constitute property or not will drive how they are treated in probate, whether they are devisable, and whether they are alienable."

この論文自体については前に書いた記事、および論文そのものをご覧いただくとして、引用部分は「Virtual Property」として考えるべきかもしれないものの例として挙げられていた。ネタ元は2005年2月3日付Washington Postの記事「After Death, Fight for Digital Memories」だ。イラク戦争で戦死した海兵隊員Karl Linn氏がネット上に残したデータが「誰のものか」について、父Richard Linn氏がISPと争っているという話。

"As computers continue to permeate our lives, what happens to digital bits of information when their owners die has become one of the vexing questions of the internet age."

お父様としては、Eメールアカウントがユーザの「資産」であれば、それは遺族が相続すべきものである、という主張なのだが、それと同時に、そこに含まれる情報がプライバシーである以上、それを遺族に対して公開すべきか本人だけにとどめておくべきか、という論点で考えれば、情報のコントロールという問題になる。アメリカの場合、ISPによって対応が異なっていて、America Online, MSN Hotmail, Google's GmailやEarthLinkなどの大手はおおむね遺族への公開を認めているものの、そうでないISPも多いらしい。

日本でどうなのかは知らないが、ここで関心があるのは、この問題自体ではない。プライバシーの問題に関していえば、本人があらかじめ同意しておけばいいだけだから、少なくとも今後の問題としていうなら、自分の死後の取扱について契約に盛り込んでおけばいい。「デジタル資産処分に関する遺言」というわけだ。

関心があるのは、「ネット上に自分が生きた証を残したい」と考える人はけっこう多いのではないか、ということだ。典型的なものとしてブログを念頭においているのだが、ネットには、自分が書いたもの、自分の写真、友人とのリンクや友人からもらったコメントといったものが残っている。それらは、死後も残されていれば「自分という人間がいて、こんなふうに生きた」証となるし、遺族や友人がその思い出にひたったり、あるいは後世の人々がその足跡をたどったりすることができる。

これって、「墓」の果たすべき機能そのもの、ではないだろうか。

ただしこの発想は、より「本人」に目を向けたものだ。あらっぽくいえば、現在の墓は、本人のためというよりむしろ「遺された人々」のためのものとなっている。そこを訪れ、花を手向けて手を合わせることで、人は死者と「対面」することができるわけだが、現在の墓は、遺骨の納められた骨壷があるという点を除けば、ただの石のかたまりでしかない。他の墓と区別できる根拠はそこに刻まれた名とそれに付随したわずかな情報だけ。来訪者はそれぞれ自分の中に思い出なり考えなりをもっているだろうからそれでいいかもしれないが、本人としてはそれだけでは不満かもしれない。その意味で、現在の墓は、本人が自分の存在証明を残すための「装置」としては、必ずしも充分とはいえないのではないか。

ブログを持っている人の中で、それを自分の「ネット上の墓」として残しておきたいと願う人は、少なくないと思う。自分の考えを伝えたくて書いている人が多いだろうから。遺された人たちにとっても、ネットであれば、いつでもどこにいても訪れることができるだけでなく、本人が遺した文章やら画像やらに触れられるのがいい。いってみれば、個人博物館みたいなものだ。実名でやっている人だけでなく、ハンドルでやっている人にもこのニーズはあると思う。ネット上だけの付き合いというのも最近は多いわけだし。

もしそうしたいなら、いくつか必要な条件があるだろう。

(1)生前のURLを維持しておけること
(2)その管理が信頼できる先によって行われること
(3)遺族ないし関係者の適切な関与の余地があること

「インターネット上のお墓」といったサービスをしている寺院や企業はすでにいくつかある。ただ、いずれも遺された人々が作ったもののようで、本人の書いたものとかそういうものを対象にしている例は見かけなかった。最近は葬儀にも生前予約があるわけだし、自分で決めたいという人は多いと思う。いっちゃ何だが、もし私が本人の立場なら、自分のページのトップが墓石の画像だなんてとうていがまんできないだろう。

こうしたサービスは、その性質ゆえに、提供者を選ぶはずだ。

(4)できるだけ既存の墓とのつながりを大事にしたほうがいいと思うので、リアルの墓を管理する寺院と連携しているべき。
(5)来訪者のことを考えると、ある程度定型的なサービスで提供するのがいいと思うので、システムはある程度の規模のある企業がインフラ的に提供するのがいいと思う。
(6)「デジタル資産」を管理を安心して任せられるという点では、信託のようなしくみに乗っているほうがいいのではないか。

アバターサービスを提供している企業にとってはもっと「野心的」なサービスができるかも、というのは、想像が走りすぎだろうか。それはまた別の機会に、ということで、このへんでやめておく。

関連情報
インターネット上のお墓」(マルチメディア・インターネット事典)
インターネットのお墓

|

« 少年犯罪より成人の犯罪のほうが問題だと思う | Main | どっちが先か、じゃないだろう »

Comments

はじめてコメントさせていただきます。

いつも拝見させていただいております。

私もブログをしています。相当進んだ肺癌患者で、まさに「墓標」のつもりで書いております。ニーズは多くあると思います。私の場合、パスワードで規制していますが、その点も含めて死後どのように自分のサイトをしようか、とふと思うこともあります。

どういうビジネスモデルになるのか素人には解りませんが、死後も親しい人たちが思い出したときに訪れることにできるようになっていれば、参加したいものです。(残り時間が少ないのでできるだけ早くこのようなサービス提供されることを・・・)

Posted by: mickey | November 13, 2005 03:27 PM

mickeyさん、コメントありがとうございます。
本人の思いに寄り添ったサービスが欲しいものですね。関連の皆様の奮起を期待したいところです。
闘病生活もいろいろご苦労があろうとは思いますが、がんばってください。それもまた「生きた証」ですしね。

Posted by: 山口 浩 | November 13, 2005 04:57 PM

http://bee.cocolog-nifty.com/sunday/2003/12/031219blog.html

まえに、似たような話題をしたことがあります。自分が亡くなったあと、家族や友人がときどき見に来てくれ、また、少しは役に立つ内容を見つけてくれたら、とてもすばらしいことだろうなと思います。

下のリンクは30代の御夫婦の闘病の記録です。奥様は亡くなられました。ココログのほうでは、奥様の書かれたコンテンツを、そのままの形で残してくれたようです。

http://homepage3.nifty.com/esperanza/

Posted by: miyakoda | November 13, 2005 11:42 PM

miyakodaさん、コメントありがとうございます。
同じようなことを(私よりも前に)考えた人がたくさんいるだろうとは思っていました。私としては、お寺の方々への問題提起のつもりで書いています。同じような声が高まっていけば、誰かが動きだすのではないかと期待しつつ。

Posted by: 山口 浩 | November 14, 2005 02:12 AM

The comments to this entry are closed.

TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 「墓標」としてのブログ:

« 少年犯罪より成人の犯罪のほうが問題だと思う | Main | どっちが先か、じゃないだろう »