「新しい金融秩序:来るべき巨大リスクに備える」
ロバート・J・シラー著、田村勝省訳「新しい金融秩序:来るべき巨大リスクに備える」、日本経済新聞社、2004年。
知っている人は知っているだろうが、バックミンスター・フラーという人がいた。独創的な発想で知られていて、「宇宙船地球号操縦マニュアル」のほかにもいろいろ本を書いていたり、さまざまな発明をしたり。カギカッコ付きで「天才」と称されることも多いが、私は正真正銘の天才だと思う。少なくとも、多くの人に影響を与えていることは確かだ。
今回の本の著者シラーは、別にフラーと関係のある人ではないのだろうが、この本はおそらく、金融の世界における一番フラー的な考え、といっていいのではないかと思う。フラーのように、現状にとらわれずよりよいやり方を提案する、という意味でだ。これは現実には一般に考えられているほど簡単なことではない。本書には、スーツケースに車輪をつけるというアイデア(いかにも当たり前の工夫のように思われる)が当初なかなか日の目をみなかった逸話が例として紹介されている。金融にもそういうことがある、ということだ。
「時として、『自明なこと』は必ずしもそう自明ではないのである。」(p.157)
帯に「本書が提唱する新しい金融秩序のための6つのアイデア」として、次の6つが挙げられている。
(1)個人の収入に対するすべてのリスクを対象にした生計保険の導入
(2)一国もしくは世界全体の経済をひとつの市場とするマクロ市場の創設
(3)借り手の所得の変動に応じて返済額が変わる所得連動型ローンの開発
(4)所得配分の著しい格差を緩和するための不平等保険の実現
(5)高齢化がもたらす経済リスクを世代間で共有する世代間社会保障の実施
(6)国際的な経済リスクを管理するための各国政府間の国際合意の形成
フラー的と表現したのは、おそらくフラーのさまざまな革新的なアイデアに接した少なからぬ人が持ったであろう「荒唐無稽」という感想を、これらのアイデアの少なくともいくつかについても持つ人がけっこういるだろう、という意味もある。実はこれらのアイデアはファイナンス理論のきちんとした裏打ちがあるものであり、その一部は充分なかたちではないにせよ、すでに現実に存在する。それでも、特に現在の金融業界にどっぷり浸っている人なら、これらのアイデアが実現できない理由を10や20簡単に思いつくことができるだろう。そういう性質のものだ。
フラーとちがって、シラーはこうした問題について明確に意識していて、行動ファイナンスの見地から、アイデアそのものだけでなく「フレーミング」、つまりそのアイデアを「どう意識させるか」が決定的に重要であると指摘している。「囚人のジレンマ」に関する面白い実験結果が紹介されている。「囚人のジレンマ」ゲームでは、「囚人」同士が協調することによってジレンマを脱することができるので、囚人の立場からすれば、いかに協調できるか、相手を信用できるかがカギとなる。ところがこの際、このゲームを「コミュニティ・ゲーム」と名づけた場合と「ウォールストリート・ゲーム」と名づけた場合とで比較すると、後者の方が協調が難しかったらしい。ゲームの「名」がプレイヤーの行動に「枠」を与えたわけだ。金融業界での例としては、ポートフォリオ・インシュアランスがとりあげられている。ポートフォリオ・インシュアランスは、「保険」と名がついているが、実際には先物の空売りポジションを連続的に変化させることで株式保有に伴うリスクのヘッジを行うという取引戦略でしかない。しかしこれを「保険」と名づけることによって、人々はリスクから守られるとの印象を抱き、人気を博す原因となった(実際にはそれが危機的状況においてうまく機能しなかった話は余談)。ともあれ、上記のアイデアも、うまくフレーミングできれば、それほど「荒唐無稽」ではないかもしれない、ということだ。
私たちの社会には、まだまだ工夫できる余地がある。それを阻害しているのは、たとえば技術的制約であり、またこれまで慣れ親しんだ慣習やらへの執着であり、あるいは社会的合意の不在である。技術的制約は、技術の発達によって解決できる余地があるが、あとの2つは工夫していかなければならない。過去を振り返れば、信託というしくみ、保険というしくみ、銀行というしくみ、いずれも金融面でのイノベーションであり、これらを実現することによって、私たちの社会は恩恵を享受してきた。まだこの世界でも、イノベーションは終わっていない。もっと勉強しよう。頭を柔らかくしよう。いろいろ工夫しよう。この本はそんなことを教えてくれる。
金融に関心のある人は、必読。関心のある人ならもう知っていることもたくさんあるだろうし、最新の状況を反映していないという問題もあるが、それでもこの本は考えを整理したりするのに役に立つ。それに、さまざまなトピックを幅広くカバーしていることは、自分があまり詳しくない領域についても多少の知識が得られるのでいい。
金融に関心のない人にも、お勧め。金融やその理論について「非人間的」とかいう人がよくいるが、これらの理論がそもそも「人間をどうやって幸せにするか」という動機から生まれていること、そのために金融から目をそむけてはいられないことを教えてくれる。それに、他の分野でのイノベーションにもつながるアイデアが含まれているのではないかと想像する。イノベーションのタネは別の分野での常識や慣行の応用だったりすることは少なくないのだ。
やや厚めの本だが、価値はある。
※2005/11/27追記
書き忘れたが、予測市場もわずかながら取り上げられている。
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