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雑誌目次をみる:「大航海」

一部に好評の「雑誌目次をみる」シリーズ。今回は「大航海」。

以下は雑誌を見ずに書いているので、たぶんとんちんかんな内容だと思う。ちゃんと読んでる人は、「バカなこと書いてらぁ」と笑い飛ばしていただければ。

教養がないせいか、正直、この雑誌が何の雑誌だかよくわからない。タイトルだけ見て海の雑誌かと思ったら、そうではない。「Voyages into history, literature and thought」とあるから、思想とか哲学とかの関係なんだろうか。バックナンバーのリストをみると、1994年創刊以来の各号の特集のリストがあるのだが、これをみてもよくわからん。

No.1(1994年創刊号) 今、宗教って何?
No.2(1995年2月号) スポーツは病気?
No.3(1995年4月号) いま、なぜアジアの歴史?
No.4(1995年6月号) 旅の歴史、大研究!
No.5(1995年8月号) 母子関係の秘密
No.6(1995年10月号) 立派なペットになりたい!?
No.7(1995年12月号) 去勢の歴史-性を侵犯するもの
No.8(1996年2月号) 考古学は世界を変える!
No.9(1996年4月号) 舌の誘惑
No.10(1996年6月号) ポストモダン再考
No.11(1996年8月号) オリエンタリズム再考
No.12(1996年10月号) ニーチェからデリダへ
No.13(1996年12月号) 司馬遼太郎カルチュラル・スタディーズ
No.14(1997年2月号) 考古学的中世
No.15(1997年4月号) 民族―20世紀最後のアポリア
No.16(1997年6月号) 「複雑系」批判的入門
No.17(1997年8月号) マクルーハン再考―マスコミ批判の原点
No.18(1997年10月号) 丸山眞男カルチュラル・スタディーズ
No.19(1997年12月号) 〈父〉の歴史―その過去と現在を検証する
No.20(1998年2月号) 国家が消滅するとき
No.21(1998年4月号) ウォーラーステイン以後
No.22(1998年6月号) 人類の起源と現代―考古学最先端
No.23(1998年8月号) チョムスキー再考―言語は本能か?
No.24(1998年10月号) プラトンと現代
No.25(1998年12月号) マルクスの考古学
No.26(1999年2月号) 反経済学
No.27(1999年4月号) 金融とは何か
No.28(1999年6月号) 知の先端の18人
No.29(1999年8月号) 宗教戦争としての現代
No.30(1999年10月号) 朝鮮-その歴史的現在
No.31(1999年12月号) いま、中国とは何か?
No.32(2000年2月号) 世界文学最前線
No.33(2000年4月号) 現代医学最前線
No.34(2000年6月号) 反・現代思想
No.35(2000年8月号) 1990年代
No.36(2000年10月号) 超・教育
No.37(2001年) 現代暴力論
No.38(2001年) 文化への問い
No.39(2001年) フェミニズムは終わったか?
No.40(2001年) いま政治に思想はあるか?
No.41(2002年) カリスマ
No.42(2002年) ゲーム
No.43(2002年) 漂流するジェンダー
No.44(2002年) パレスチナ
No.45(2002年) 近代天皇論
No.46(2003年) 日本語という幻想
No.47(2003年) アメリカ文明の試練
No.48(2003年) 会社とは何か?
No.49(2003年) ファンタジーと現代
No.50(2004年) カフカと現代思想
No.51(2004年) 精神分析の21世紀
No.52(2004年) 言語と人類の起源
No.53(2004年) 身体論の地平
No.54(2005年) テロの本質
No.55(2005年) 現代日本思想地図

なんだかわからないながら、けっこうそそるテーマがたくさんある。ただ、どうも書き手の名をみていると「ちょっと苦手かも」という人も少なくない。要は小難しい系ってわけだが。

ともあれ、最新号。季刊らしく年4回発行なので、2005年の第3号ということになるが、目次は次の通り。

No.56 2005年 増頁特集 インターネットの光と闇
・インターネット・コリアの思想 小倉紀藏
・少年犯罪とインターネット 作田明

おおインターネットか。「光と闇」ね。なんだか読まなくてもだいたい内容がわかりそうないいタイトルではないか。でも、「光と闇」なんてどんなものにでもあるよなぁ。日本経済の光と闇。自動車産業の光と闇。鳥インフルエンザの光と闇。魚肉ソーセージの光と闇。さくらクーピーペンシルにだってきっと光と闇があるにちがいない。インターネットの光と闇なんて、陳腐といえば陳腐かも。あと、「光と闇」といういいかたをするとき、なんでみんな「闇」のほうしか見ないんだろう。「光と闇」って書いてるんだから、ちゃんと「光」のほうも見てもらいたいなぁ。

それに、「インターネット・コリア」って何だ?その思想って?韓国のインターネット事情?韓国に独特のインターネットに対する思想?ネット上で南北統一するプロジェクト?インターネット・コリアという新しい思想がある?うーん。

「少年犯罪とインターネット」かぁ。この特集は要するに、インターネットが少年とかに悪い影響を及ぼしているって話をしたいようだな。ぜひ「青年犯罪とインターネット」「中年犯罪とインターネット」「高齢者犯罪とインターネット」ってのもやっていただかないと。高齢者はともかくとして、「青年」と「中年」なら事例がけっこうあると思うぞ。

対話
・インターネット・カーニヴァル 斎藤環×鈴木謙介
 祭りに浮かれる若者たちは虚無をも超越している--希望なき時代の処方箋はあるのか?

・深くて浅い世界と私:コミュニケーションのメタ自由をめぐって 佐藤俊樹
・「公/私」の解体、「再帰/反省」の再構築 北田暁大
・インターネットに倫理は可能か:イラク邦人人質事件を例に 和田伸一郎
・インターネットは反・民主主義か:ブドウを欲しがらなくなったキツネ 歌田明弘
・ネットは若者をいかに変えつつあるか 浅野智彦
・ネットの持つ力の限界 荷宮和子
・心のインターネット 妙木浩之

「鈴木謙介」さんはGLOCOMの人だったな。「祭り」ってのはあの「祭り」ってことだろう。ふうん「虚無を超越」しているのかぁ。「虚無」は、辞書を引くと「何も存在せず空虚なこと。特に、価値のある本質的・本源的なものの存在しないこと」とある。何もないことを超越したら、何かがあるのかないのか。「虚無」を「超越」すると一体どこへ行くんだろう?

「メタ自由」ってのも難しくて私にはわからない。「自由であるかどうかを選ぶ自由」ってことかな。「メタメタ自由」(自由であるかどうかを選ぶ自由をもつかどうかを選ぶ自由)とか、「メタメタメタ自由」(自由であるかどうかを選ぶ自由をもつかどうかを選ぶ自由があるかどうかを選ぶ自由)とかいうのもあるんだろうか。じゃあ「メタメタメタメタ自由」とか「メ…しつこいね。でも、「自由」っていう概念に「メタ」を持ち出すなら、「メタメタ」がないのか、どこまで「メタ」を重ねれば人間は「自由」になれるのか、なんてことを議論しないといけないような気がする。選択肢はいくつかありうるだろう。
①「メタ自由」まで考えれば充分(ほんとかよ)
②「メタ」を限りなく積み重ねた後に「真の自由」がある(じゃあそれを論じろよ)
③どこまでいっても「真の自由」はない(だったら「メタ自由」なんて論じても意味ないじゃん)
④ぐるっと1周して「束縛」こそが「真の自由」である(なんかアブナい方向だな)

「インターネットに倫理は可能か」、というのは大問題だな。「政治家に倫理は可能か」と同じくらい大問題だ。あと、マスコミも。「イラク邦人人質事件」はこんなちゃかしを許さないくらい悲惨な事件なわけだが、事件に関してネットに出ていた罵詈雑言の類は、実はネットやその他の公共的な場所以外のプライベートな場所では、日常的に語られていたのを記憶している。仲間うちで「こんな時期に好き好んでイラクに行くほうが○○」とか軽口を叩いていた人はたくさんいたと思うが、そのとき倫理的な咎めを感じていた人は少ないのではないか。「倫理」ってやつにはどうも縁が薄くてわからないのだが、仲間うちで語るのはよくて、ネットに出すのがまずいというのは、倫理の問題なんだろうか。

「インターネットは反・民主主義か」という問いかけは、勘違いかもしれないが不毛だと思う。インターネットはあくまで道具であって、民主主義という「ものの考え方」とは概念としてのドメインがちがうからだ。「ビニールハウスは反・民主主義か」とか「アルカリ電池は反・民主主義か」みたいな問いかけと、なんだか似ているようにみえちゃうのだが。

大航海インタビュー 岩井克人×三浦雅士
・資本主義から市民主義へ 信託関係が意味するもの

「市民主義」ってのはなんだか気になるキーワードだ。わからないが、とても大事なもののような気がする。「信託」ねぇ。すごく面白そう。この記事はぜひ読んでみたい。

ニューパースペクティブズ
・ユリシーズの帰還 折口信夫『死者の書』再考 安藤礼二

ニューホライズン
・アンデルセンの神秘を表現する画家、ハリ-・クラーク 荒俣宏
・ヘーゲルとネオプラトニズム 山口誠一

うーむこのあたりはまったく土地勘がなくて、しばらく考えてみたが何も思いつくことがない。教養がないってことだな、やはり。

連載
・連載〈移動文学論--行動から移動へ〉第2回 移動する容疑者の文学 青木保 
・連載〈新説世界史〉第7回 屈辱の連鎖としての歴史 岸田 秀
・連載〈未来派という現象〉第7回 雑音が音楽を変える バリッラ・プラテッラとルイジ・ルッソロ 多木浩二
・連載〈白秋望景〉第10回 詩人の厳しい経済生活 川本三郎
・コラム⋅生半可な漂流者55 フィラデルフィア、九十二番通り 柴田元幸
・コラム⋅本の遠近法23 ジャンケン文明論の射程 高階秀爾
・コラム⋅平成見聞録43 流動する身体が発する言葉 川崎 徹

この中でまっさきに「詩人の厳しい経済生活」というタイトルに目がいってしまうのは、私が下世話だからだろうか。それとも「厳しい」仲間だからだろうか。ともあれ、詩人という職業、あまり金回りのいい類とは思えない。そもそも「最近売れた小説」はいくつか思いつくものの、「最近売れた詩」はひとつたりとも思い出さないし。いろいろご苦労があるのだろう。そういえば、私の好きなマンガの中に「小さなお茶会」というのがあるのだが、その主人公「もっぷ」がやはり詩人(猫だから「詩猫」という)だ。詩人というとなぜかこの「もっぷ」を思い出してしまう。もっぷはさほど豊かそうではないがそれなりの暮らしをしていたが、ああはいかんのだろうな。

「ジャンケン文化論」については最近どこかで見かけたことがある。勝ち負けのはっきりした対立構造ではなく三すくみの「あいこ」構造。アジア的だ、というふれこみだったが、三権分立ってことなら欧米的ともいえないか?まあアジア的かどうかはともかく、頑なな人々の対立ばかりが目立つ昨今の世界において、こういう考え方は「ひとつの可能性」だ。ただ、それがどうやったら実際の問題解決手法になるのか、私にはまだよくわからない。三すくみはうち二者が結託しないことが暗黙の前提のような気がするが、実際には二対一になるケースが多いのではないか?とするとゲーム理論だなぁこれは。グーとパーが対立!競ってチョキを自陣営に引き入れようとする。チョキはこの機にグーとの懸案事項を解決しようと双方にかまをかけ、それを知ったグーとパーが対立を棚上げにして共同戦線を張ってチョキを叩く!焦ったチョキは左手に助けを求め…じゃんけんも奥が深いな。

ここまで書いてきて、自分のコメントのあまりに軽いというか薄っぺらというか、ものを知らないことがあからさまに出ているというか、なんとも情けない気分になった。深い敗北感とともに、本日はこのへんで。

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