こういうアウトソーシングもある、という話
海外の安い人件費を生かすために海外アウトソーシングをするというのは、いまや当たり前になっていて、一部ではもうこれだけではちょっと遅れた感じがする、という場合もある。もはや「世界市場」をターゲットにどこで何を開発し、どこで何を生産し、どこで何を売るかをグローバルに、かつそれぞれの地域に合わせて考えていく時代、ということなのだろう。
とはいえアウトソーシングにもいろいろある。これはちょっと考えさせられる話。
この記事はずいぶん前のものだから、たくさんの人が既に見ているはずだが、あまり話題にならないところをみると、あまり意識に残らなかったのかもしれない。2005年 9月30日付の「多くのインド低所得者が外国製薬会社の人間モルモットに」というやつだ。ソースはAFPなので、あちこちに出回っている(こちらに転載されていたのでリンク)。この「人間モルモット」という表現がどぎついが、原文でも「Human Guinea Pigs」となっているから直訳だ。似た題材で朝日の英文記事もあったのでこちらもリンク。
要するに、新薬の開発コストを下げるためインドで臨床試験を行う外国製薬会社が増加している、という話だ。インドには安い報酬で臨床試験に応じる低所得者が数多くいるし、英語を話せる研究者の層が厚いので(ここらは中国では無理ということか)、インドで臨床試験を行えば、しばしば10億ドルを超える新薬開発コストを55%以上削減可能とか。インドに新薬試験拠点を設ける外国製薬会社は約50社に上るそうだ。
ちなみに、臨床試験の被験者がどのくらいもらえるのか調べてみたら、日本ではこのくらいらしい。ざっくりいって1日約2~3万円。けっこう高い。規制の問題についてはよく知らないが、ざっとみた限りでは、日本の製薬企業でインドに開発拠点を作っている会社はなさそう(もしちがったらご指摘いただければ)だ。ただ、提携などを模索する動きは始まっているらしい。
マッキンゼーによると、インドの臨床研究産業は2010年までに15億ドルの規模に発展する見込みで、そのころには約30万人の被験者が必要になるという。インドで行うのはフェーズ2とフェーズ3の臨床試験(「フェーズ2」などの用語について、知らない方はこちらをご参照)だ。
ただ、被験者側が非識字層であることから、懸念を持つ人々も多い。記事には「批判派は、心ない企業が疑問のある新薬の実験台にインドの膨大な非識字人口を利用する危険があると指摘している。」とある。こちらのサイトも、そうした関心から記事を転載しているのだろう。
詳しく知らないが、確か、一般的にいってフェーズ2と3の成功確率はそれほど低いわけではない。それぞれ70%前後の数字を聞いたことがある。そもそも臨床試験に入る前に危険なものはかなりの部分取り除かれているわけだから、その意味で記事は、素人目には、「人間モルモット」という言い方も含めて、色眼鏡で見ているきらいがあるような気がする。もちろん、充分な説明が行われているかどうかについては、問題があるかもしれない。教育水準の問題もあるし、充分な理解を得ることは事実上難しいかもしれない。それでも、臨床試験を海外で行うことが即倫理的に問題と考えるのは、一見わかりやすいが、よく考えるとちょっとちがうのではないかという気がする。
むしろここでの問題の本質は、「人間」としての「価値」は変わらないのにその「対価」が大きくちがうということではないかと思う。アメリカ人とインド人が当該試験薬に対して同じ特性をもっているとすれば、臨床試験の被験者としてどちらを選んでも、その試験の効果は同じはずだ。しかし一方は、もう一方よりもはるかに安く同じ試験を受け入れる。この構図は、製造業で定着し、サービス業にも広がりつつあるアウトソーシングの問題とまったく変わらない。一般の製造業におけるアウトソーシングによるコスト削減に賛成の人は、この種のアウトソーシングにも賛成だろうか。逆に、アウトソーシングによる職の流出に反対する人は、この種のアウトソーシングにも反対するだろうか。
言い方は悪いが、世界には、「人間」が大きな資源となっているような国がある。「人材」じゃなくて「人間」だ。このインドの場合もそう。あとは低コスト労働力を武器に生産拠点をひきつける中国(とかそれに続く国々とか)とか、海外出稼ぎ労働者を主力の輸出「人」(失礼!)にしているフィリピンとか。私たちは、直接的にせよ間接的にせよ、こうした人たちのおかげで豊かな暮らしを享受しているわけだ。もちろん「人はみな平等」なわけだが、それは必ずしも「みな同水準の生活を享受できる」ことを意味していない。不完全にせよ「みな同水準」をめざした政治体制は、ほとんど崩壊してしまった。今私たちが生きているのは、いい悪いは別として、そういう世界だ。それをあるがままに受け入れて恵まれた者の「特権」を目いっぱい享受するか、それともすべてをなげうって「平等」の実現に邁進するか。その間をとるとすればどこをめざすか。
考えていかなくてはいけないことが、たくさんある。でも、考えているだけでもだめだ。何もしないこともひとつの「選択」だし。はてさて。
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Comments
「平等」は観念としてはわかるけど、具体的に考えていくとあっという間に行き詰るやっかいなもんですね。
Posted by: でんすけ | November 02, 2005 01:43 PM
この記事を読んでいて、以前見た雑誌のインタビュー記事を思い出しました。
「フェアトレード」に関わる人の記事です。
・日本で安い値段で買えるものはどこかの国で安い賃金で働かされている人が作ったものかもしれない。
・私達は生産者から直接、公正な値段で継続的に製品を買い取り、それを市場に広めている。
・商品を買うとき、「これはなぜこの値段なんだろう」と考えてみてほしい
というような内容でした。
「考えているだけでもだめだ」の答えとして「フェアトレーディング商品を買う」という選択肢は容易に思いつきますけど、そういう商品は当然のごとく値段が張るんですよね。
「こういうアウトソーシングもある、という話」を読んで考え付いたのは、”開発コストがダウンして一番うれしいのは、ダウンした分安く製品を買える消費者ではないかな”ということです。
つまり、”「なるべく安い商品を買いたい人」って、「生活が苦しい人」なんじゃないかな”、と。(苦しいって言っても、「安い賃金で働かされている人」よりは豊かって場合もありますけど。)
「生活が苦しい人」が豊かにならないと「安い賃金で働かされている人」を豊かにできない。
けれど社会の仕組みを変えていくこと(経済的に豊かになること)は今すぐは無理ですよね。
募金の話にかわりますが、生活が苦しいときって10円でも出したくないときがあるんです。
その状態で「たとえ1円でも募金する」、その心を持てればよいのですが。
結局、「苦しい人」が「さらに苦しい人」に対してどこまでできるか(どこまでお金を出せるか)が重要になってくるのではないのかなと思います。
以上のことを思いついたのですが、コメントとしてうまく推敲できず・まとめられず。
このまま投稿します。すみません。
Posted by: 606号 | November 02, 2005 05:00 PM
でんすけさん、コメントありがとうございます。
「平等とは何か」「平等は善なのか」「平等なら人は幸せなのか」…。答えがあるのかないのか、これらの点に関して人は合意できるのか。制度の「腰が定まらない」のは、こういう根本のところで未解決の問題があるからなんだろうと思います。
606号さん、コメントありがとうございます。
まとまらなくて当然。その迷いはそのまま世界中の人が皆共有すべきものだと思います。理解しあえない、心底は合意できないことを前提として、最低限何をどうすべきか。そこが社会のめざすべきところなんでしょう。迷走しつつ、行きつ戻りつ、試行錯誤を延々と繰り返していくのだろうと思います。「たとえ1円でも」のくだりは、聖書に似た話がありましたね。大きな額じゃなくて、財産の内でより大きな割合を寄付した人のほうがえらいって話。宗教ならそれでいいんですが、いざ現実に人を救うための資金、となると、偽善でも金額の多いほうがいい場合もあるだろうし。私は、迷いは誠実の証拠だと理解しました。
Posted by: 山口 浩 | November 02, 2005 05:31 PM