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December 13, 2005

「内なるごけけ鳥」という思想

「ごけけ鳥」といっても、知らない人のほうが圧倒的に多いと思う.。マンガ「小さなお茶会」に出てくるキャラクターだ。

最近思い出す機会があって、改めて思ったのだが、「ごけけ鳥」って、けっこう重要な考え方なのではないか。

「小さなお茶会」は猫十字社の作品で、「花とゆめ」に連載されていた。擬人化された猫の夫婦が主人公の、かなり少女趣味の入ったメルヘン調のマンガだが、その中にけっこう骨太な物語があったりして、なにげにファンが多い。その「小さなお茶会」全7巻のうち、ひときわ人気が高い話の1つが、この「ごけけ鳥」の登場する話だ。

物語の中で、ごけけ鳥は、人(作中では「猫」なんだが)に不幸を与える鳥として登場する。人からは姿が見えないが、何か悪さをするときに「ごけけっ」という鳴き声が聞こえる。いわば疫病神のような存在であるわけだ。なぜそんなことをするか。今、本が手元にないのでうろ覚えだが、ごけけ鳥のことばを借りればこうなる。

「猫(ひと)ってのは、幸せすぎると不安になるんでさ」

つまり、たまに不幸を味わうことで人はかえって安心して幸福を享受できる、ということだ。逆にいえば、人が幸福を感じるためには、不幸を必要とする。ごけけ鳥は、そのために人に「悪さ」をする。根っから善意、なのだ。だからごけけ鳥は、救いがたい不幸ではなく、「ちょっとした幸運をかすめとる」ような、罪のない不幸をめざす。それがうまくいかないと落ち込んだりもする。この後ごけけ鳥のあまり美しいとはいえない羽根をめぐる味わい深いエピソードがあったりするのだが、ここではマンガ評論をやる気はないので省略。

では何を書きたいかというと、「ごけけ鳥」なる存在が象徴する、ある「真実」についてだ。つまり、

幸福は、不幸があってはじめて幸福たりうる

ということについて。

繰り返すが、ごけけ鳥は、ある人が幸せを感じていられるために、その人に対して、幸せに対比されるべき不幸をもたらす。不幸な目に遭って不幸を思い出すことで、それとの対比において、人は自分の中でのいい状態に対して幸福感を覚えることができるのだ。

このあたり、カーネマンのモデルを思い出させる。人の効用関数のかたちは、参照点との上下関係によってちがう。で、この参照点はけっこう容易に動くのだ。幸せなことばかりが続くと、この参照点は上方に移動するだろう。そうなると、参照点の左右で効用関数の傾きは変化するから、上方への動きより下方への動きに対してより敏感になる。これはすなわち、幸福を感じにくくなることを意味する。それがつまり「ごけけ鳥の出番」ということになるわけだ。

なんてことをつらつら考えていたら、けっこう空恐ろしい発想に行き当たった。今の社会は

誰かが幸せであるために、誰かが(相対的に)不幸でなければならない

という社会なのかもしれない、という発想だ。

いいかえてみる。社会が活力を持ち続けるためには、その中で幸福と不幸の対比がさまざまな人々の間になければならないのではないか。理由は上と同じ。人の幸福感には絶対的な基準というものがないからだ。誰かが他人に比べて「幸福」だと認識するためには、自分よりも「不幸」な人を見つけなければならない。それによって参照点は下に下がり、幸福を感じることができるようになる、と。1人の中での幸福と不幸の振幅はそれほど大きくないだろうし、またあまり大きいのはリスキーでもある。しかし他人との差はけっこう大きいことがありうるし、差がどんなに大きくてもしょせん他人だ。だから自分より「下」の他人との比較をすれば、参照点を大きく引き下げて、より相対的な幸福感を増すことができるようになるかもしれない。そうした幸福感を求めて人が活動することが、社会としての活力になっていく。

もちろん満足の基準を他人ではなく、別に定義されたものに求めることもありうる(たとえば宗教というのは基本的にそういうしくみだと思う)。ただし普通の人々は、それほど他人や社会から「独立」してはいない。自分の幸福の感覚は、他人との比較にけっこう深く依存している場合が多い。だから皆、他人と比較したがる。皆が同程度に幸福な世界というのは、皆があまり幸福感を感じられない世界、なのかもしれない。それは逆にいえば、格差が活力を生み出すということだ。

たとえ仮に社会の活力のために人々の間の格差が必要だとしても、「幸福な人」と「不幸な人」が入れ替わる、あるいは多様な価値観、多様な幸福の基準がある、なんて場合はまだいい。しかしそうでない場合はかなりつらい。「希望格差社会」ってことなんだろうが、他の人々に比べて「下位」にいる人たちが、ずっと不幸せを感じ続けなければならないとしたら、あんまりではないか。しかし現実の社会は、よしあしは別として、どうもそういう方向に進んでいるように思われる。

となると、やはり個人がそれぞれ自分の中に幸福と不幸の振幅を見出す力を持つ必要があるのではないか。社会階層のどこにいようと、自分にとって今がいいときでも悪いときでも、「より悪い状態」を想像できるなら、それとの比較で自分の今いる場所を「幸福」と感じることができる。いいかえれば、「内なるごけけ鳥」こそが求められている、のかもしれない。「不幸をもたらす鳥」としてのごけけ鳥ではなく、「不幸の存在に気づかせ、今がそれなりに幸福であることを教えてくれる鳥」としてのごけけ鳥だ。

小さなお茶会 完全版(1)
小さなお茶会 完全版(2)
小さなお茶会 完全版(3)
小さなお茶会 完全版(4)

もともとのマンガは全7巻だが、今は「完全版」という名で全4巻にまとめられたものが売られている。ごけけ鳥の話は主人公夫婦の子ども(ぽぷり)が生まれる直前だから、かなり後のほうだと思うが、4巻まとめて買ったほうがいいと思う。それだけの価値はある。

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Comments

山口浩さん、こんにちは、

いま、モニターの前で泣いています。本当に「お茶会」好きでした。猫十字社さんがもう描かなくなってしまったのが、本当に残念です。

ごけけ鳥は、なんというか社会人になってからその渋い仕事ぶりの真価を感じられるようになりました。

やっぱり、人生って苦いです。

Posted by: ひでき | December 13, 2005 02:38 PM

ひできさん、コメントありがとうございます。
「お茶会」ファンがここにも。苦いけど、甘いところもあるから、ビターチョコレート、といったところですかね。
ちなみに私一番のお気に入りは「もの忘れのへび」です。

Posted by: 山口 浩 | December 14, 2005 09:36 AM

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