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February 11, 2006

マクルーハンってよくわからない

何の因果か、メディア論なるものをほんの少しかじるはめになった。で、「まあ読め」となるのがマクルーハンの「メディア論」らしい。もちろん深く読み込んでらっしゃる方々とはちがい、あくまで浅くなでる程度でしかないわけだが、なでる前に最初でいきなりけっつまづいてしまった。よくわからない。

以下はただ「わからない」と愚痴をこぼしつつ助けを求めているだけなので、そういうのが嫌いな向きにはお勧めしない。恥をしのんでさらすので、「ばーか」とかいうのもどうかご勘弁を。

いやもちろんわかるところもあるんだよ。あるんだが、マクルーハンのメディア論というとたいてい真っ先に出てくる例の「ホット」だの「クール」だのというあれだ。まずあれでけっつまづいちゃったのだ。

「ホット vs. クール」の話は、私には「○○は××」みたいな分類ゲームのようにみえてしまう。それふうに並べるとこんな感じ。

・テレビはクール
・映画はホット
・電話はクール
・ラジオはホット
・マンガはクール
・写真はホット

ふーんといってみるものの、ぜんぜんわかってない。「じゃあ紙芝居は?」とか聞かれたら、うーんと困ってしまうわけだ。タネはというと、「ホット」なメディアとは「情報密度が高く、受け手が入り込む余地のないメディア」であり、これに対して「クール」なメディアとは、「情報密度が低く、受け手がいろいろ補ってやる必要のあるメディア」である、ということになるようだが、これでわかるのか?ふつうの人は。

というわけで、しかたなくもう一度、もう少していねいに読み返す。

「ラジオのような「熱い」(hot) メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」(low definition)なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話される言葉が「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者によって補充ないし補完されるところがあまりない。したがって、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオは例えば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。」

…やっぱりわからない。

一番わからないのが映画とテレビの差だ。私はたいていの場合、映画をビデオやDVDで見る。映画館だと周りが気になって集中できないからだ。で、邪魔者のいないところで集中して見る。こういう場合、上記の分類からすれば、テレビだから「クール」ということになるのだろうが、少なくとも私にとっては「情報密度が高い」し、受け手としての私は入り込む余地がない。どちらかというと「ホット」のように思える。映画だけではない。よくできたテレビ番組も同様に、集中して見る。だとすればこれも「ホット」だ。これに対して、ほとんど見ないがバラエティ番組なんかは、確かに一歩引いて見ている。

電話とラジオの差もわからない。電話とラジオとで、音質にそうちがいがあるわけではない。どちらも自分の耳に直接語りかけてくる。自分で補うかどうかは、何がどのように語られるかによって決まる気がする。写真とマンガもそうだ。マンガのように細部が省略された描写は情報密度が低い、という意味なのかもしれないが、よくできたマンガは、絵の「密度」に関わりなく、情報密度が高いと感じる。私がそうかどうかは別として、マンガリテラシーの高い読者の場合、自分自身が「二次元」の世界の人、マンガと同じ情報密度の人になりきれるのではないか。細部を補う必要はない。自分が入れ込める作品であれば、容易に細部がない世界に自分をおくことができるのではないか、と。

で、考える。「ホット」か「クール」かは、どんな媒体を使うかではなく、どんな表現に触れるかによって決まるのではないかと。つまり「ホット」とか「クール」とかいっているのは、メディアのことではなくて、実はコンテンツのことではないか、と。

松岡正剛の千夜千冊」あたりを見ると、マクルーハンがコンテンツではなくメディアに読者の意識をもっていこうとしていたと書いてある。ふうん。でもやっぱりよくわからない。なんでそんな必要があるのだ?思うに、メディアとコンテンツというのは、いってみれば親亀と子亀のような「相対的」なものではないだろうか。下の段にいるのがメディア、上にいるのがコンテンツだ。で、子亀の上に孫亀がいれば、子がメディアで孫がコンテンツ。たとえば、電波というメディアに乗ったテレビ番組はコンテンツ。そのテレビ番組がさまざまな情報を伝えるメディアと考えれば、その中で紹介される情報はコンテンツ。そこで伝えられた情報は、あるメッセージというコンテンツを伝えるメディアの役割を果たしているかもしれない。このような関係を前提として、そのときどきの文脈に応じて「メディア」「コンテンツ」ということばは使い分けられる。たとえばテレビの技術開発をしている研究者にとっては、メディアとは電波で情報を送るハードやらその技術やらであって、その上に乗る電波全体がコンテンツだ。テレビ局のプロデューサーにとっては、その電波で伝えられる自分たちの番組枠がメディアであって、そこに流す番組がコンテンツ。資金を提供してテレビで自らの主張を伝えたいスポンサーにとっては、そのテレビ番組自体がメディアで、CMなどそこにこめられたメッセージがコンテンツ。そういうものではないのか。

きっと私の考えが浅いかまちがっているかだけなのだろう。なのだろうが、わからないものはわからないのだ。

というわけで、詳しい方々にお聞きしたいのだが、この点を措いといて先へ進んでかまわないだろうか。別に深遠なるメディア論をきわめようとかしてるわけではないのだ。致命的でなければ、ぜひ素通りさせていただきたい。もし「この程度もわからないようじゃ無理」とかいうなら、尻尾を捲いて逃げ帰ることにする。「そんなもの簡単」というなら、助けると思ってぜひご教示いただければ。

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Comments

マルクーハンという名前すら、今初めて聞いた詳しくない人ですが、HOTとCOOLというのは単純にそのメディアの情報量、情報密度が多いか少ないかという相対的な区別なんじゃないかな、と。

例えば一般的なテレビ番組よりも映画の方がデジタルデータに変換した場合、ファイルサイズ(情報量)は大きくなります。紙芝居は・・漫画と同じぐらいにCOOL?

写真の中のリンゴは基本的には誰が見てもリンゴですが、漫画のリンゴはひょっとしたら梨かもしれません。

最初は、コンテンツにおける受け手との対話性の強弱か、行間を読む必要性の強弱か迷ったんですが、もっと低いレイヤーの物理的な話なんじゃないかな、と思いました。

Posted by: oubakiou | February 11, 2006 01:25 PM

数年前に読んだ記憶から助けになりそうなことを書かせてもらうと、私はマクルーハンが書いたのは「当時の」映画やテレビのことだと理解しました。他のメディアも然りです。

メディア論に書いてあったように思いますが、当時のテレビはオーケストラを流すとかそういう内容が主流だったということから、クールなのだと理解しました。対して映画は当時から恐らく物語があった(?)ということでホットなのだと理解しました。

もしかしたら映画館に「行く」っていう点も能動性の判断で重要だったのかな。。
すいません、このへん記憶がかなり曖昧です。

Posted by: okunio | February 11, 2006 07:37 PM

コメントありがとうございます。

oubakiouさん
そうすると、写真も白黒とカラーでちがったりするのでしょうか。カラーならリンゴとわかるところ、白黒だったら梨とまちがえるかもしれないし。

okunioさん
なるほど。当時の文脈で読め、ということですね。それはありそうだなぁ。でも、とすればやっぱり問題はコンテンツ、のような。

Posted by: 山口 浩 | February 12, 2006 03:23 AM

そうじゃなくて、メタ意識の方に注意を置こうとしているんですよ。
同じコンテンツを違うメディアに載せて見る、とか考えてみるとわかると思います。

これを進めていくと、次は身体論が出てくるんですけどね。ギブソン再読ですかね。

Posted by: ゆきち | February 12, 2006 11:15 PM

「慣れ」の問題もあるかもしれません。
物心ついたときからメールがあった世代とそうじゃない世代には、感覚的な違いがだいぶあるかと。
物心ついたときからビデオやDVDで映画を見るくせがついてる人と、大人になってからその楽しみを知った人との違いのように。

なんか最近、似たようなトピックが、あちこちのブログに上がってますね。
そういう時期なのでしょうか。「上の世代が下の世代を意識せずに言ったことを一度疑ってみる」時期に。

Posted by: いちる | February 13, 2006 03:17 AM

コメントありがとうございます。

ゆきちさん
ごめんなさい。「メタ意識」ってよくわかりません。同じコンテンツをちがうメディアに載せてもそれに対する態度は変わらないように思えてしまいます。私の場合。「情報を補う」ってことの意味がわかってないんでしょうね。「ギブソン」ってジェームズ・ギブソンですか?メディアもコンテンツも自分の「外部」にあることでは変わりないのでは?ああもうわかんないですぅ。最初に何読んだらいいですかね?

いちるさん
本件はひとえに私の無知・不勉強のせいですが、それをおくと、世代による認識の差というのは、いわれるとおり、思ったより大きいのではないかと思います。この弊害は特に年配者に顕著ですね。なまじわかっていただけにそこから離れられないという。なんか「イノベーションのジレンマ」みたいな感じがしています。こういうのが増えてきているのだとすれば、やはり時代の転換期なんでしょうね。

Posted by: 山口 浩 | February 13, 2006 10:19 AM

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» マクルーハンとメディア論 [偶然]
別に専門家でも何でも無いのですが、[http://www.h-yamaguchi.net/2006/02/post_7b71.html:title=H-Yamaguchi.net「マクルーハンってよくわからない」]を読んで、やっぱりそうなんだなあと。私は大学時代にメディア論を勉強しようと思い「[http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582764614/mitei0d-22/ref=nosim/:title=マクルーハン理論]」読んで、そのあまりに直感的... [Read More]

Tracked on February 11, 2006 04:03 PM

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