ネットはいつ「リアル」の仲間入りするのだろうか
よく、「ネットでのコミュニケーションはバーチャルなもので、リアルな関係とはちがう」といったいいかたをする人がいる。「まがいもの」だ、みたいなニュアンスだ。いいたいことはわからないでもないが、たいてい見下した説教臭い論調なので、それだけで辟易する。しかし、感情的に「きらい」とかいってるだけだと説得力がないので、少し「理論武装」してみようと思った。といっても、社会学者さんとか哲学者さんとかが好きそうな高邁なご高説じゃなくて、せいぜいが思いつきレベルの屁理屈なんだが。
「ネットはバーチャル」論というのが要するに何なのかをちょっと考えてみると、どうも2つぐらいありそうな気がする。ひとつは、ネット上の人格は現実の人格と異なっているし、身元が確かでない人のいうことを不用意に鵜呑みにするのは危険だ、といったコミュニケーションの相手方に関すること。もうひとつは、ネットを介したコミュニケーションでは本当の気持ちを伝えることはできず、相手の本当の気持ちも知ることはできない、といったコミュニケーションの形態による制約に関すること。そんな感じだろうか。他にもあるかもしれないが、ご勘弁。
この2つのうち、最初の点は、大胆に言い切ってしまうと、おそらく、ネット固有の問題ではない。もちろん、ネットでの人格が現実の人格とちがう場合があるのは、誰にでも多少なりと経験があるはず。つい批判がましくなったり、逆に妙に親切になったり。しかしこれは、現実のコミュニケーションにおいても、その場の状況によって人が態度を変えるということと、基本的に変わらないように思う。「内弁慶」ということばがあるが、あれと「ネット人格」とは何がどの程度ちがうものなのか。鬼上司が家庭ではやさしいパパとか、ハンドルを握ると別人格、なんてのもよくある。トイレに落書きをする際に世間体をふまえる人はいない。そもそも人とはそういうものなのではないか。で、身元がわからない人をむやみに信用するのは危険、というのもどこにでも共通するルール。Nothing new、だ。
というわけで、本来ネットでのコミュニケーションの問題というのは第2の点、ネットを介したコミュニケーションでは心が伝わらないという問題である、ということになると思う。めんどくさいのでそう断定する。というか要するにそっちについて書きたいだけのことなんだが。
というわけでやっと本題。ネットのコミュニケーションでは心は伝わらないのか。
ネットでのコミュニケーションにおいて、気持ちや考え方を伝える多くの要素が切り落とされていることは知識として知っているし、実感としてもわかる。そのときの表情、しぐさ、口調といったものは、メールの文章にはあらわれない。その意味で、コミュニケーションの手段として完全ではない。それはその通り。
では、その他のコミュニケーション手段はどうだろう。たとえば手紙。手紙には、書いた人の文字のくせや便箋、ペンの選択なんかで個性があらわれ、文字による情報を補足する。しかし、書いた人がどんな人かとかその気持ちや考えが完全にあらわされているかとかといえば、やはり不完全であるといわざるを得ない。書いたのが男か女かだって怪しい。では電話は?これも同じだ。電話の場合、話す人の声や口調、その周囲の音なんかも伝わるから、手紙よりは情報量が多いかもしれない。少なくとも相手が男か女かはわかる。たぶん。しかしそれでも、情報量は完全から程遠い。表情を見ることはできないし、身振りを感じ取ることもほぼ無理だ。
つまり、あらゆるコミュニケーションのメディアというものは、コミュニケーションの手段として、完全なものではない。どれをとってもなんらかの不備がある。さらにいえば、では面と向かって対話すれば完全なのかといえば、必ずしもそうではない。直接会っていたって、本当のところがわからないなんてのはよくあることだ。要するにどれも不完全で、しかもその差というのは「あっちかこっちか」ではなく、連続的なものだ。そういうものに「リアル」だとか「バーチャル」だとか、基準のはっきりしない二分法をあてはめるのは不毛ではないだろうか。
電話が登場したときのことを想像してみよう。新しいメディアであった電話は当初、現実に訪問したり手紙を書いたりすることの「代用」、と位置づけられたはずだ。電話で話すことは、「リアル」に会って話すのと比べれば「バーチャル」といえる。相手は本当は目の前にいないのに、あたかもそこにいるかのように話せるからだ。つながっているのは声だけ。その意味で「本物」のコミュニケーションではない。しかし現在、電話によるコミュニケーションは、どちらかというと「リアル」のほうに分類されていないだろうか。メールの「無機質な文章」に比べて、電話は口調や声質など、「リアル」を感じさせるものがあるからだ。
同様に手紙も、それがコミュニケーション手段として登場した当時は「バーチャル」なコミュニケーションだっただろう。実際に行くかわりに、紙に字を書いてもっていってもらうわけだから。そこには書いた人の表情や感情はない(自分で書かない場合も多かったろうし)。だが今では、手紙はむしろ「リアル」な心を伝える手段と考えられているように思う。
何が変わったのか。いうまでもない。人が変化に対応したのだ。個人個人が、という要素もあろうが、おそらくそれよりも世代交代による部分が大きいと思う。登場した当時の人々には「バーチャル」ないし「まがいもの」としか感じられなかったとしても、その存在を当然と考える人々に代替わりしていくことによって、総体として「リアル」と感じられるようになっていく。「リアル」と「バーチャル」の二分法は、要するに、自分にとって「リアル」として感じられるものと「バーチャル」として感じられるものとの区分でしかない。で、その区分は自分が持っている知識や常識といったものによって大きく左右される。要因は世代だけではないだろうが、まちがいなく世代は最も重要な要因のひとつだ。
とすれば、ちょっとした予言めいたことがいえるかもしれない。やがて、ネットを介したコミュニケーションが「リアル」であるという認識が一般的になるであろう、と。手紙がそうだったように、電話がそうだったように。それがいつか、まではわからない。で、タイトルの問いになるわけだ。
ネットはいつ「リアル」の仲間入りするのだろうか?
ここから先はちょっと妄想モード。「攻殻機動隊」の世界は、ネットが今よりかなり「リアル」になっている状態だろう。ただ完全にそうなっているわけではなくて、そのへんの微妙な加減がストーリー上も重要なテーマになっているわけだ。しかしあれは、現代(というか80年代だよなもともとは)の私たちの感覚をふまえてああ表現されている要素があると思う。人という種は、こうした変化に対しては意外に順応性が高い。10年前の日本人には、「ケータイ短歌」なんて想像もつかなかったはずだが、今やそれほど違和感なく受け入れられているし、むしろ携帯電話を「現代の矢立」だなんて積極的に評する人もいる。ひょっとしたら、実際の2029年の日本人たち(最近生まれた、あるいはこれから生まれる人々)は、もっと自然に、私たちが今もっているような問題意識にとらわれずにネットとつきあっていくようになっているかもしれない。
それが人と人が同じ場所で直接交わすコミュニケーションを喪失させるのか、人間関係を希薄化させるのか、というのは、別の問題のような気がする。職場で、30m離れた席にいる同僚と話す際に席を立って歩いていくか、あるいは内線電話をとるか。メールで送る、という人もいるかもしれない。そういう選択の問題と似ているのではないか。それを「人間関係の希薄化」とか嘆くのはちょっとおおげさすぎないか?
たぶん世代によって、かなり意見はちがうだろう。年配の人たちの平均的な考えはなんとなく想像できる。若い人たちがどう考えるか、聞いてみたい気がする。
※2006/2/9追記
なんだか圧倒的な敗北感にさいなまれている。自慢する気はまったくないのだが、自分の書いたものに対して、「わかりやすい」という評価をいただくことがたまにあった。まあ半分以上はお世辞なんだろうが、ほめられるのは単純にうれしいものだから、いい気になっていたのかもしれない。しかし、トラックバックとかはてなブックマークのコメントなんかを見てると、どうも上の本文を、私が「ネットはバーチャルであってリアルでない。つまり本物でない」という意見を表明したものであると読んでいる人がけっこういるらしいことがわかった。それから、自分にとってはもうリアルだとか、リアルだと思う人とそうでない人がいるから無意味な議論だとか、そういうのもあった。
嗚呼。
努力はしたつもりだが、不足だったようなので、しつこく書き足してみる。まずは本文の冒頭から。
よく、「ネットでのコミュニケーションはバーチャルなもので、リアルな関係とはちがう」といったいいかたをする人がいる。「まがいもの」だ、みたいなニュアンスだ。いいたいことはわからないでもないが、たいてい見下した説教臭い論調なので、それだけで辟易する。しかし、感情的に「きらい」とかいってるだけだと説得力がないので、少し「理論武装」してみようと思った。
私は、「ネットはリアルでない」といっている人に対して「辟易」している。「辟易」の大辞林による定義は「閉口すること。うんざりすること。」だ。リアルでないといっている人に対してうんざりしているということは、私個人はリアルだと思っているということだ。ネットでのコミュニケーションは、にせものではない。(注:念のため。そもそも「バーチャル」は「にせもの」ではない。「事実上存在するのと同じ」という意味だ。だから「ネットはバーチャル」論は二重の意味でちがうぞと思うのだが、本題からずれるのでこれ以上突っ込まない。)で、「リアルでない」とか言っている人に対して反論するための「理論武装」をしようとしたのだ。冒頭の文章は、私には、何度読んでもそういう意味にしかとれないのだが、どこでまちがったのだろうか。
それから、本文では、コミュニケーションのメディアについて、
「リアル」と「バーチャル」の二分法は、要するに、自分にとって「リアル」として感じられるものと「バーチャル」として感じられるものとの区分でしかない。
と書いた。そのココロは、「リアル」であるかどうかは相対的なもので、時の経過と慣れによって移り変わるから、やがて「リアル」と感じる人が多数を占めるようになるよ、ということだ。そうなったときが、「ネットはリアル」が社会的な「常識」として共有されるようになるときだ、と。以下の部分が、それだ。
登場した当時の人々には「バーチャル」ないし「まがいもの」としか感じられなかったとしても、その存在を当然と考える人々に代替わりしていくことによって、総体として「リアル」と感じられるようになっていく。
だから、すでにネットを介したコミュニケーションに「リアル」な人間関係を感じ取ることのできる人たちに対して、「あなたの考えはおかしい」と論争を挑んでいるわけでは、ない。しつこくくりかえすが、ない。問うているのは、「あなた方の考え方が社会全体の中で圧倒的多数派になるのはいつごろだろう?」だ。
しつこくしつこく繰り返すが、私は、「現在のネットを非リアルと定義した上で「ネットのリアル化」を語る」立場はとっていない。「現在のネットを非リアルと定義」する人たちに論争を挑むための理論武装をしたかったのだ。「ネットはリアル」と感じ取ることのできる人たちではなく、「ネットを非リアルと定義」する人たちを納得させる理屈だ。「ネットは非リアル」と定義している人たちに対して「私にとってネットはリアル」とかいっても説得力がないのは当たり前ではないか。だから世代論を持ち出したのだ。「ネットは非リアル」と考えている人たちに、あんた方はやがて消えていくんだよ、あんた方のいっていることは100年前の人が電話を非リアルと定義したのと同じことだよ、といっているのだ。
努力してみたが、これでもわからないだろうか。念のため付け加えておくと、この追記部分は、本文に何も新しい論点を加えていない。ただ言い直しただけだ。これでもだめだとすると、リアルとかバーチャルとかより以前に、日本語そのものにギャップができているのかもしれない。別に、トラックバックをいただいた皆さんとか、ブックマークしていただいた皆さんを批判するつもりはない。あくまで、自分の中の無力感だ。
コミュニケーションて、難しいなぁ。
勉強しなおさないと。
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Comments
やまぐちさん、おはようございます、
そういえば、攻殻機動隊について書いたなぁとかおもって具愚ってしまいました。いや、グーグルで検索してしまいました。
http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/06/ghost_in_the_sh.html
あいやー、いいこと書いてんじゃん!とか自画自賛してしまいました(嘘...、いや半分本気なのが自分で怖いのですが[笑])。
ネットがリアルになれるかどうかというのは、ネットの人格であれ、リアルで面と向かって表現しうる人格であれ、お互いの人格を信頼できるかどうかにかかっていると思います。ジャミングされようと、ハックされようと、球体人形の形であろうと、お互いの気配というかゴーストを感じて、その人格を認め、必要なときに必要な共同の活動をできるかどうかということがとても大事だと思います。
Posted by: ひでき | February 06, 2006 09:56 AM
ひできさん、コメントありがとうございます。
ええと、個人レベルでいえば、ネットでのコミュニケーションは、その人が「リアル」と感じるならリアル、というのが私の意見です。その意味ではすでにかなりの数の人にとってネットは「リアル」であるはず。おことばを借りれば、ネットの向こうに「お互いの人格を信頼できる」相手がいるという確信がもてるということです。
上で書いたのは、そうではなくて、社会一般の認識についての話です。たとえば「かんたんケータイ」のCMで小林桂樹が「簡単じゃないか!」と叫んでますけど、あの層ですね。あの層の人たちの大半が、今のテレビや電話と同じようにネットを認識し使いこなしているような状態、といったらいいでしょうか。あるいは、みのもんたのアバターチャット人生相談にお年寄りの相談が殺到しているような、そんなイメージ。その意味では、「攻殻」の世界はまだそこまでいっていないように思います。
Posted by: 山口 浩 | February 06, 2006 03:27 PM
私に限った話かもしれませんが、ネットは現時点で十分に「リアル」に結び付いていると思っています。
通信手段としての電話を考えたときに、例えば「家族危篤!」「よし、病院に駆けつけなくては!」というケースでは、電話はリアルアクションを起こすためのキッカケとなります。
ネットの場合も「うまいラーメンが食いたい」「よし、ネットで探そう」「見つけた!」「よし、行こう!」というように、リアルアクションのキッカケになっているんですね。
そういう意味では、私の中では電話とネットは等価です。
Posted by: McDMaster(マナル店長) | February 07, 2006 12:00 PM
McDMasterさん、コメントありがとうございます。
そういう方、多いと思います。一方で、そうでもない方も多いですよね。新聞やテレビなどでは、ネットでのコミュニケーションの「光と影」とかいって影ばっかり語る評論家の方がたくさんいます。世間一般への影響力は、こういう人たちのほうが強いですね、しかも、聞く耳を持たないわけです。ほぼ信念みたいになってますから。
というわけで、なんとか働きかけるための理論武装が必要かな、と思った次第です。論破するのではなく、「ああそれもそうだね」と言ってもらえるような理屈を。徒労に終わる可能性もかなりありますが。
Posted by: 山口 浩 | February 07, 2006 12:25 PM
概ね納得するんだけど、ログ機能を忘れているような気がします。
私は、2ちゃんねるでバッシングされ、関係者への被害を恐れて、関連記事をインターネットから削除したのだけど、キャッシュがコピイされていて、ネット上から消え去ることはない。
そして、それは決して悪いことではなくて、過去の自分の言説と違う文脈を語る自分を自制してくれるし、過去の自分を反省することも促す。
それは、人とのコミュニケーションにもいえることで、のらりくらりその場限りの言説を繰り返す人の信頼性を失わせる。
リアルな世界との違いはそこにあると思っている。
Posted by: sponta | February 09, 2006 05:29 AM
spontaさん、コメントありがとうございます。
ええと、私は子供のころ、近所の塀に、身に覚えのない相合傘を描かれて困ったことがありました。否定して回りましたが、噂は消えず、相手にも迷惑がかかりました。
匿名のコミュニケーションの中には悪意のあるものが混ざりうること、自分が忘れたくても他の人が忘れてくれないことがあることなどは、程度の差こそあれメディアというものの本質であり、それはそのメディアが万年塀であってもインターネットであっても変わらないように思います。
Posted by: 山口 浩 | February 09, 2006 09:49 PM
レスありがとです。
いやいや。そういうのじゃなくて、簡単に言うと、インターネットでは、単なる日常会話であっても、基本的に内容証明つきで、手紙を書いているのと同じってことをいいたかったのです。
つまり、弁論に長けていて、のらりくらりごまかすような人は生きていけなくなる。そういう人がコミュニティーの重要な立場を占めてしまってた場合、ディスココミュニケーションになる。かといって、その人をこえて、その人の上司にコミュニケーションをとると、大事になる。ことを荒立てることで、こちらの良識を疑われる。
でも、インターネットでのBBSやメイルのやりとりなら、ホリエモンのように、後で検察に押収される可能性もあるし、自律的にもなるし、BBSやCCによって、上司にも最初ッから筒抜けになる。これによって、コミュニケーションの質はすんごく変わると思うんです。
これは、個にとっても、大きなこと。
BBSやメイルのやりとりが第三者に知れることによって、自分たちの誠実さを訴えることができる。
ゴッホなどはその例であって、もし、当時インターネットがあって、ゴッホと弟テオの手紙のやりとりが公開されていたら、ゴッホも生きているうちに名声を得たかもしれない。
コミュニケーションは大きく変わっていると思うのです。
まぁ、おてんとうさまはお見通しってことなんだけどなぁ…。
Posted by: sponta | February 10, 2006 05:11 AM
spontaさん
なるほど。ということは、「お見通し」されたくない方は便所の落書き等の伝統的手段に戻れ、ということですね。匿名のコミュニケーションにもそれなりの価値はあると思いますが、役割分担としてはいい線なのかもしれないですね。
Posted by: 山口 浩 | February 11, 2006 11:00 AM