政府と市場:どちらにも頼れない悩み
「人口減で経済どうなる」と銘打ってはいるが、「どうなる」という分析ではなく「どうすべきか」という政策論がテーマだ。吉川教授は経済財政諮問会議の民間議員でもある。現在の経済政策のバックボーンとなる考え方を示している。これに対して権丈教授は異を唱えているわけだ。
というわけで、まずは両者の論点を並べて比較してみる。
論点 | 権丈 | 吉川 |
日本経済の成長余力 | 年2%の経済成長は可能 | 生産性向上で実質GDP2%、1人あたり2.5%成長が可能 |
成長のために必要なのは | 医療、介護、保育、教育を公的支出で賄い、社会的資源を有効に活用すること | これまでになかった財やサービスの登場。民間の創意工夫で技術の進歩と資本の蓄積を達成 |
政府の役割は | 市場のダイナミズムを活用しつつ、その中で人々が活躍できる機会を広く平等に保障すること。公的な財源で賄わなければ機会の平等は保障されない | 公的支出で賄うサービスの範囲を広げることには慎重であるべき。政府が経済に介入しすぎると選択の自由を損なう |
大きな政府か、小さな政府か | 「ある程度大きな政府」が望ましい。今のような「小さな政府」の方向には真に豊かな社会はない | 社会保障制度について「小さな政府」「大きな政府」を論ずるのは非生産的。日本はどちらの両極端をもめざしていない |
社会福祉サービスの担い手は | 安い労働力が豊富なアメリカのような国でなければ市場を通じた供給は無理。欧州のように公的支出で賄うべき | 規制改革を通じて民間の市場を育てるべき。政府が提供すると乱用され、コストが高くつく |
医療制度で重要なのは | 誰もが最適な医療を受けられること。公的負担を抑制して所得による格差が生じるのは許容できない | 命にかかわる大きなリスクをみんなで支えあうしくみ。軽度の医療費まで公的に負担するのは乱用を招く |
医療をどの程度 優先すべきか | 日本は主要先進国の中で医療費の対GDP比率が最も低い。人々が尊厳を持って生きるには、医療は他の分野より優先度が高い | 医療も大切だが教育も防災も大事。今の財政事情から考えれば、公的負担はある程度抑制する必要がある |
国民は医療サービスの充実を望んでいるのか | 政府や国民に対して保険料や税を引き上げるよう説得するべき | 国民負担を増やしてまで医療を充実させたいとは国民は望んでいない |
経済格差をどうすればいいか | 格差はある程度しかたないが、固定化され再生産されるのは問題 | 経済が安定的に成長していくことで格差が緩和していく |
というわけで、読みながらつらつら考えたこと。
まず、日本の成長余力に関しては意見が一致していることを確認しておく。ただ、そのために必要な条件に対する考え方がちがっているということだ。上記の通り、意見の対立点はかなりはっきりしている。一般論で話しているのではないことも意識しておきたい。これらはすべて現行の制度やしくみを前提とした議論であり、それぞれ固有の現状認識と具体的な方向性を念頭においている。
権丈教授の「比較的大きな政府」はなかなか新鮮な表現。最近「大きな」を正面から使う人は少ないから、ある意味「大胆」でもある。権丈教授もそのことを意識してか、自分の意見に対して世論の支持があまり得られていないことを暗黙裡に認めた発言も。諮問会議議員である吉川教授に対して「政府や国民に増税の必要性を説明すべき」はちょっとスジちがい。そういうのは自分でやらなきゃ。ただ、そもそも政府というものの主要な役割の1つが所得再配分であることを考えれば、もちろんそれなりの論拠がある話。
一方吉川教授は、概ね今の政策の流れに沿った主張を展開。ただ、紙面の関係かもしれないが、なぜ公的サービスの拡大が望ましくないかを充分には説明できていないように思われる。たとえば医療に関して、公的サービスの拡大を主に乱用の観点から問題視しているが、選択の自由は必ずしも乱用への対策とはいえない。効率性は公平性を保障しないからだ。金を持っている人だけが必要性とは関係なくサービスを受ける事態は生じうる。それに平等を求める人にとって、乱用があるからだめ、という議論はそれだけでは充分な説得力を持たないだろう。で、結局は財政の問題になる。
吉川教授は「人々がどこまでの水準の公的負担を望んでいるかという現状認識で、権丈さんと私には違いがあるのだろう」とコメントしているのは、その意味で正しい。財政事情と予算配分に関する考え方のちがいがあるということだ。財政に余裕はなく社会保障に関する国民負担のさらなる増大は許容できないとみるか、諸外国に比べて医療費の水準は低いから他を削ればもっと出せるとみるか。ただ、他のどこを削って捻出できるという具体的な論証はないし、社会一般にそれができるとも考えられていないようだ。この点は権丈教授にとって痛いところであるのは上記の通り。
というわけで、いわばがっぷり四つ。国民の皆さんどっちを選びますか、というわけだが、ここから先は本来具体的な数字をもって語らなければ理解できない。両先生はわかっているのだろうが、やはりここは素人向きに、「どのくらい負担を増やしたらどのくらいのサービスが」とか、「いやこの部分をこう切り詰めたらいくら捻出できる」とか、そういう議論を見せていただきたい。これが難しいからなかなかわかりにくいんだけどね。でも何かしらやらないと埒が明かないでしょ。
それから、読んでいて、この論争は他にも興味深いポイントを提示しているように思った。というわけで、ここから先は私見、というか感想。
この論争は、突き詰めると「市場と政府のどちらがより信用できるのか」に関するものだ。めざすのは「国民の幸福のための資源の有益な配分」。いってみれば経済学の正統なる目標だ。市場は自分の利益ばかりを考える有象無象の集まり。「より必要とする者がそれを得る」から全体として資源が最も有効に活かされる」はずだが、金のない者には絵に描いた餅。じゃあということで政府を通じた所得再配分で公平を期そうとしても、実際にはそこらじゅうに無駄やらムラやらばかり。どうも再配分の過程で誰かがだいぶん吸い取ってもいるようだ。市場と政府、どちらも頼りない。どちらにも頼れない。私たちの悩みはつきない、というわけだ。しかし市場も政府も、私たちが作り上げるものだ。それらが私たちの期待に応えられないことは、結局は私たち自身がその責めを追うべき問題のはず。「誰か他のやつが悪い」では何も解決しないことを認識する必要がある。専門家の皆さんには、もっともっと説明を要求しよう。そのうえで、最後は自分たちで判断しよう。政治というのはそのためのシステムだ。
それからもうひとつ。このお2人、どちらも機会の平等が重要だとしているが、「何が機会の平等か」についての考え方が異なっているという点だ。よく「機会の平等か結果の平等か」といった論点をみるが、実は対立点はそこではない、というところに注意。ポイントは、「機会」というものが単独ではなく連鎖しており、ある機会について結果の平等はその次の段階の機会の平等を意味する、という視点だ。典型的な例は教育で、よい教育は、そこそこの確度でよい就業のための条件になる。とすれば、就業に関する機会の平等を確保するためには教育に関する結果の平等が必要ではないかという議論は、それなりの論拠を持つことになる。そうなると、問題は「何をどこまで平等にすれば機会の平等が保障されるのか」だ。極端にいえば、生まれながらに持っている能力の差だって機会の不平等になってしまう(なぜ私はイチローのような野球の才能をもって生まれなかったのだ不公平ではないか!みたいな)が、さすがにそこまでいう人はいるまい。じゃあどこまでか。これまた「選択」の問題。人によって考え方はちがうが、どうにかしてどうすべきかを決めなければ。
最後に、「選択」問題には正解があるとは限らない。「より適切」な解もないかもしれない。それでも私たちは、「社会的合意」というやつを作り上げなければならない。どちらかの案を採用して片方を切り捨てるか、あるいは折衷案を作って全員不満を残すか。もちろん無数のバリエーションがある。自分の考えを人に押し付けるつもりはないが、私個人としては、たとえどんな「選択」になろうとも、それを理由にふてくされてしまうようはよそう、と思う。不満があっても、それを社会がルールとして採用したなら、それを前提として受け入れよう。不満ならそのルールを変えるための努力をすればいい。不満だから私は従わないとか、もう何もしてやんないとか、そういうのはよそう。他人が自分の望まない選択をしたからといって、その人たちのせいにして自分の選択まで捨ててしまうのはもったいない。
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