日はまた沈んで、また昇って、
ビル・エモット著、鈴木主悦訳「日はまた沈む―ジャパン・パワーの限界」草思社、1990年。
最近話題の「日はまた昇る」、ほうではない。
「沈む」から15年。満を持して最近出版された「日はまた昇る――日本のこれからの15年」が好評のエモット氏であるわけだが、根性のひねくれた私としては、やはりここで原点に戻って「沈む」ほうを読んでみようと思った。…というか、まだ読んでなかっただけのことなんだが。幸い中古をアマゾンで59円だかで購入することができた。遅らせたかいがあったというものだ。
当然ながら、以下は、マクロ経済分析において専門家ではない私のたわごとだ。専門的見地からのコメント、ご指導を歓迎するのでぜひご教示いただきたい。
「日はまた沈む」は、当時バブル絶頂期にあった日本経済が下り坂に入ることをいち早く指摘したもの、ということでベストセラーとなった。で、私としては、この本が「なぜ日が沈むか」を分析した本だと期待して読んだわけだ。もちろん、ちゃんと書かれていた。いたのだが、それは一部だ。本書の半分以上は、その当時の日本や日本をめぐる諸外国の経済・政治・社会情勢をさまざまな角度から描写したものだ。読みながら「いつになったら沈むんだよ!」と何度もつっこみを入れたくなったことをここに告白する。
実はこの手法は、新作の「日はまた昇る」のほうでも使われている。日が「昇る」ところに至るまでに、読者は延々を現在の日本の経済・政治・社会情勢を読むことになる。描写は冷静かつ的確で、もちろんたいへん参考になるし、ほぼ一貫して日本に対してフェアな態度を貫いておられて気持ちがいいわけだが、やはり「いつになったら昇るんだい!」といいたくなる構図はあまり変わっていない。とにかく何でも入れとけ、ということなんだろうか。
まあそれはおいといて、「沈む」ほうに話を戻す。本書が出版された当時、私がこの本を読まなかったのは、そのタイトルに違和感があったからだった。「日はまた沈む」って。「沈む」って何だよ!という感じだ。なんでまたこんなおおげさな。だが、今回読んでみて、わかった。「沈む」という表現は、当時の欧米人にとって日本経済の発展ぶりが「脅威」として認識されていたことを前提として考えなければならないのだな、と。当時を思い起こしても、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんて本を読んで喜んだりはしていただろうが、日本が世界のナンバーワンになる、なんて本気で思っていた日本人はほとんどいなかったと思う。そもそもGDPで2倍あるんだぜアメリカは。軍事面でも依存してるし、通貨だってかなわないし。でも欧米には本気でそう思ってた人たちがいたらしい。「沈む」ということばを、本気で聞きたかったのだろう彼らは。
で、実際の予測のほうだが、確かに日は沈んだ、とはいえる。90年代以降の15年間の日本経済はまさに「沈む経済」の時代といっても過言ではない。だから本書は的確な予測をした、ということになるのだが、ちょっと待て。個別にみていくと、必ずしもそうでもない例はある。たとえば本書の中で、日本の「経済力」の象徴とされた「資本の輸出」に関していえば、こんな具合だ。
中期的には貯蓄率が低下し、経常収支は誰も考えなかったほど急激に均衡に向かって、政府と企業はますます借り入れを増やすだろう。日本の余剰資本はすでにピークを過ぎた。せいぜいあと10年、2000年までしかつづかないだろうし、それよりも1995年までに消えてなくなる可能性が高い。あるいはもっと早く消滅するかもしれない。
ええと。たとえばこんなあたりを見てみるわけだが、確かに日本の経常収支は1986年にピークとなっているが、その後も循環はするが一貫して相当額のプラスを保っており、消滅などしていない。「日はまた昇る」では「日本が西ドイツのGNPに匹敵するほどの対外資産の所有者になることなどありうるだろうか?」と書いているが、上でリンクしたペーパーをみれば、2001年末の日本の対外純資産額は、ドイツ(東ドイツとくっついた後だ)の名目GDPに匹敵する規模に達していることがわかる。
まあ予測の「細部」が(たとえ主要な構成要素であるとしても)はずれたからといってその予測に価値がないなどというつもりはない。実際、「沈む」という方向性は合っていたわけだし、当時それを言い切ったのはそれだけで充分に価値があった。ただ、「沈む」ということばが、本書で見る限り、一時的な下方トレンドとして扱われてはいない、ということは指摘しておきたい。本書において「日はまた沈む」とは、「沈み続ける」ないし「相当長期間にわたって再び浮上することはない」という永続的な方向性を示した表現だった。つまり、新作「日はまた昇る」の冒頭において、
二〇〇五年十月以降の出来事は、あのときのわたしの考え方が正しかったことを裏書している。つまり日本は債務とデフレに悩まされた一五年に及ぶ景気低迷から今度こそほんとうに回復したということだ。
と書いていることは、かつて「日はまた沈む」で書いたことを微妙に、しかしはっきりと修正していることを意味する。「日はまた沈む」において、15年なんて年限は示されていない。「日本は消費者の国、金融業者の国になりつつある。そしてそれは、日本が年金生活者の国として二一世紀の最初の四半世紀をどう生き伸(原文ママ)びるかを決定づけていくだろう」としているところからすれば、短くても2025年あたりまでの数十年間を念頭においた記述であることは明らかだ。それに、資産価格の下落の可能性についてはふれているが、デフレなんてことばは見たところただの1回も登場しない。何より、「日はまた沈む」には、日本の「再浮上」を想定した記述がなかったのだ。
もちろん、エモット氏は日本が破滅するといっていたわけでもない。「日はまた沈む」の結論部分はある意味きわめて「常識的」だ。
要するに、アメリカがナンバーワンでありつづければ、日本は明らかにナンバーツーになるだろう。
ええと、経済規模の面でいえば当時も今もそうなんだけどそれが何か?
というか、だったら「沈む」なんてことばを使うなよはじめっから、と言いたいね私は。でもまあ、こう言ってもらえてうれしかったんだろうな欧米の人たちは。結局、勝手に持ち上げて心配して、勝手に落として安心したってことだな。それで今は、また持ち上げてくれてるわけだ。ありがたいね。
以上は私の読み違いなんだろうと思う。「日はまた沈む」としても、沈んだらまた「昇る」のは当然、と読むべきだったんだろうな。つまり、「沈む」とか「昇る」とかいうことばは、国の盛衰とかそういうおおげさな問題じゃなくて、単に景気が悪くなるとかよくなるとか、そういうレベルの話であるというわけだ。となれば、またそのうち続編が出るだろう。何せエモット氏、このたびめでたくエコノミスト誌編集長の職を辞して執筆活動に専念されることになった由。これまで以上のペースで力作を連発していただけることだろう。うれしい話ではないか。タイトルを考えるのがたいへんだろうから、不肖私メもお手伝いしておこうと思う。
・「日はまたまた沈む」
・「日はまたまた昇る」
・「日はまたまたまた沈む」
・「日はまたまたまた昇る」
・「日はときどき曇る」
・「ところにより雨も降る」
・「この冬は寒い」
・「台風が来た!」
…まだいくらでもできるが、まあこのへんで。これだけあればあと2~3年はもつはず。そういえば、「日はまた沈む」には、こんなくだりがある。
単純に過去の趨勢を将来に延長して考えるのは予測の手法としてお粗末だし、それを適用する期間が長くなればなるほど欠点が露呈してくる。予想外のことが起こるかもしれないし、そうでなくても往々にして趨勢そのもののなかにそれを打ち消す萌芽がひそんでいるものだ。
うむ名言。で、「単純に過去の趨勢の反対を将来として考える」のは予測の手法としてうまい方法らしい。逆張り万歳!だ。そうかこれは「汎用型将来予測手法」の新型になるかも。いや勉強になった。
とはいえちょっと懸念もある。同氏の著作を並べてみた。
・「日はまた沈む―ジャパン・パワーの限界」1990年、358ページ。
・「来るべき黄金時代―日本復活への条件」1992年、301ページ。
・「官僚の大罪」1996年、190ページ。
・「20世紀の教訓から21世紀が見えてくる」2003年、422ページ。
・「日はまた昇る―日本のこれからの15年」2006年、160ページ。
4番目の「20世紀の教訓から21世紀が見えてくる」を例外とすると、だんだん著作のページ数が減ってきている。もしやネタがだんだん残り少なくなっているのではないか、と陰ながら心配してみたりするのだが。まあ、日本経済はこれからもアップダウンがそれなりにあるだろうから、材料が尽きてしまうことはないだろう。「日はまた沈む」において、「日本のチャンス」は「かぎられた時間内のものであ」ったとされていたが、エモット氏のチャンスはまだまだ続くはずだ。一方日本国民としては、願わくば、「またまた沈む」の出版までにもう数年、いや10年ぐらいいただけるとうれしいのだが。
…おっと忘れるところだった。「新しい方」も一応ご紹介しておかねば。
ガイジンさんにほめられていい気分になりたい方へ。
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