「24時間ニュース専門局」ってのは公共放送にふさわしくないか
NHKのあり方についての議論がいろいろ交わされてるようだが、あまりチェックしてないので現在の状況はあまり知らない。局数を減らすとか受信料を下げるとか、そういう縮小方向の話に対抗する軸が「公共放送としての意義」みたいなものらしいんだが、どうもそれがピンと来ない。
で、考えてみた。私なら「公共放送」に何を望むだろう、と。あくまでお茶飲み話レベルで、だが。
「放送の公共性」ってのはNHKに限らず民放もこぞって挙げるお題目なわけだが、どうも何をさしているのかよくわからない。話が錯綜しているように思う。民放の人の話でよく出るのは、視聴率第一主義でなく、ニュースやら報道特集番組やら、「視聴率はとれないかもしれないが伝えるべきこと」を伝えているぞ、という話だ。確かにそういう番組は、数は少ないがあるにはある。ただ一方で、「多くの人が求めるものを放送するのが公共性だ」みたいにいう人もいて、そうなると、毎日がんがんたれ流されてる視聴率第一主義のタレントいじりバラエティ番組だって立派に「公共性」テストに合格することになってしまう。
民放だって「公共性」を謳い文句にするんだから、じゃあNHKの公共性って何なのさ、というあたりはさらにややこしい。受信料収入で運営されてるから「公共的存在」だという循環参照みたいな訳のわかんない論理もあるが、そういうのはとりあえずほっとく。NHKの放送記念日特集番組では、「NHKだけが全国にあまねく放送を届ける義務を負っていることこそが公共性だ」と主張する人がいたが、だったら受信料なんかとるなよ、払えない人はどうすんのさ、ということだよな。問題は、こういう形式論じゃない。公共放送なるものを私たちが必要とするなら、それが放送すべきなのはどんな番組なのか、ということだ。NHKはそういう公共性の高い番組を放送している、というかもしれないが、わざわざNHKがやらなくてもいいドラマとか歌番組とか、そういうのまで含めて「公共性」というなら「ちょっと待ってくれぃ!」と言わざるを得ない。
で、個人的趣味から思うんだが、「24時間ニュース専門局」なんてのがもしあったとしたら、それは公共放送にふさわしいものの1つではないだろうか。
もちろん、民間放送でもニュース専門局なんてのはありうる。CNNだってそうだし。でも、それを受信無料の地上波でやることが、「公共性」のあらわれとなるんではないだろうか、なんて思ったりする。実際、今でもNHKは民放と比べて報道番組の比率が高い。民放だと視聴率がとれにくいから、ニュースの時間をこれ以上増やすわけにいかないんだろう。公共放送の「出番」、ではないか。
このへんは人によって考え方がちがうだろうが、私たちは、充分な量のニュースに接しているとはいえないのではないかと思う。どのニュース番組を見てもだいたい同じ内容。ニュースをネタに与太話をくっちゃべるニュースバラエティ番組もあるが、あれも似たようなメンツが似たような話をするばかり。世界のニュース、地方のニュース、さまざまな視点、細かい事実。そして最新の情報。私たちは、まだまだ知るべきなのに知らないことが山ほどある、のではないだろうか。
もしこうした報道が「公共性」の大きな要素だとしたら、これを専門の局が担うことで、他の放送局は、「公共性のくびき」からかなりの部分解き放たれる。報道に割いていた時間も含め、タレントのばか騒ぎだろうが当たらない占いだろうが(もちろん良質な番組も)好きなだけ放映することができるようになる。その代わり、「公共性」を特権の言い訳に使うこともできなくなるが、それでいいではないか。民間企業なのだから、利益を追求することは別に恥ずかしいことでもなんでもない。「民間企業」の顔と「公共性を帯びた放送局」の顔を都合よく使い分けるのは、もうやめたらいい。
24時間ニュースというと、CNNの例なんかもあるし、なんとなくテレビをイメージしてしまうわけだが、ぜひラジオでやってもらいたいなぁ。ワンセグなんかも始まったし(まだ独自番組はできないけど)、今はテレビも持ち運びできる時代ではあるけど、ずっと見ているわけにはいかない。やっぱり聞き流しのできるラジオのほうが向いていると思う。
あと、公共性という観点からは「文化」ってやつがあって、その意味ではドラマやら歌やらもいいことになるのかもしれないが、やっぱりそういうのは民間に任せておいたほうがいい。やっぱり、キモは報道だ、と思うんだが。だめかなぁ。
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