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May 10, 2006

「憎悪の表出」としての保守、という話

2006年5月9日付の朝日新聞夕刊に、宮崎哲弥氏のコラムが出ている。「進む保守思想の空疎化 『新たな敵』求めて散乱 現実主義すら失調」という題。けっこうすごいこと書いてる。よくぞここまで。

内容は、まあタイトルから想像がつくとおり。とはいえこれだけではさすがにわからないと思うので、出だしの段落を引用してみる。

この十年は戦後保守の最盛期だった。保守的な言説が広範に浸透し、日本の政治基軸は確実に右にシフトした。だが、皮相な盛況の影で、思想内容の空疎化が進んでいるのではないか。九〇年代末辺りから保守陣営内で囁かれはじめた危惧が、いま現実の危機として露呈しつつある。

もともと保守には「アンチ○○」といった具合の「仮想敵」が必要であるが、90年代以降それが失われたために再構築を強いられた。努力はされたものの、皆が一致しうる「敵」が見出せず、またその基盤を支える社会構造もゆらいできたため、次第に細分化、断片化する様相を見せている、という。もはや保守の美点であった現実主義すらも失い、「平和さえ唱えていれば、それが実現すると信じた空想的平和論者の姿勢と瓜二つ」と喝破される状況、なんだそうだ。

この「細分化」の過程で「インターネットという感情の増幅を特質とするメディアの普及」が影響している、との指摘もあるから、ネット界隈の皆さんも他人事ではない。いわゆる「サイバーカスケード」というか「祭り」の話だ。別に「保守」の人たちだけがこうした事態を引き起こすわけではないし、すべての「保守」の人がこうした事態に参加しているわけでもないが、宮崎氏の指摘が、「典型的」な姿として、この2つの結びつきをイメージしていることは想像に難くない。コラムの最後の段落はこうなっている。

そこに自省の契機も、熟慮のよすがもなく、ただ断片的な反応―それもしばしば激烈に走る―しか看取できないとすれば、それらはもはや保守とも保守主義とも無縁の、単なる憎悪の表出に過ぎない。

私は自分を保守ではないと思っているので別に心は痛まないが、気が弱いもので、こうばっさりやられると、「いやそこまで言わんでも」ととりなしたくなる。もとより宮崎氏の論点について支持も反論もする気はないが(正直、私の手には余る)、少なくとも、ある主張が「憎悪の表出」としかみられないようだと、コミュニケーションは難しいと思う。「議論」というのがどんなものであるのかについて、共通の理解がないせいなのかもしれない。別に考え方が人それぞれなのはかまわないが、人と人の間にかかわりができる部分については、やはり合意できる最低線をさぐる努力を怠ってはいけないと思う。

宮崎氏には、このコラムの「続き」をぜひ期待したいところ。じゃあどうすればいいのさ保守の人たちは、というあたり。批判の対象となっている「保守」の人の意見も。「保守じゃない論者」の意見も聞きたいところだが、それって誰のことなんだ?というのはけっこうやっかいだな。「リベラルな人」なのか「親中派」か「ジェンダーフリー論者」か「女系天皇支持派」か「構造改革派」か「対米追随派」か。「アンチ巨人」だけじゃどこのファンかわからないってのと同じことか。

最後に蛇足だが、宮崎氏への反論をここに書かれても困るので、そこんとこよろしく。まずは当該コラムを全文読んでみることをお勧めする。賛否はともかく、脊髄反射的な怒りで返すには惜しいクォリティだと思う。「憎悪の表出」でない、読み応えのある反論がどこかに出てくるといいな。

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Comments

宮崎氏のコラムを読んでいないので詳細はともかく、思いついた点を。

かつて新左翼運動が過激化したあげく連合赤軍事件を象徴として自壊していったように、右側も思想的に逆のスタンスでそうなりつつあると捉えるのか、ナチズムとして過去にも存在した極端な排他主義的傾向の繰り返しにすぎないのかという、二つの解釈が考えられます。ちなみにこの二つの性質は、前者が大衆運動からはじまって次第に先鋭化しつつ少数派に転落していく過程であったのにたいし、後者が逆により広範な大衆を巻き込んでゆくポピュリズムの要素が強い点で、大きく異なると思います。私は現在の状況は後者に近いと見ていますので、ある意味より深刻さを感じるんですね。新左翼運動にしてもオウムにしても、決して多数派大衆に受け入れられなかったゆえに拡大することなく破滅していったのですから、自ずから限界があったのに対し、ポピュリズム的な傾向は多数派を巻き込むだけある意味タチが悪いと考えられます(もちろん前者が質的にマシという意味ではありません。拡大の可能性の話です。)。誤解を恐れず言えば、あるレベルのエリート支配は大衆の暴走を防ぐ必須条件だと思います。そうした慎重さがかつての保守派には見られたようなんですが、そんな発想が最近は急速に喪失してしまっているということじゃないでしょうか。

Posted by: すなふきん | May 10, 2006 08:38 PM

すなふきんさん、コメントありがとうございます。
この分野は弱いんですが、そういう状況なんですか。宮崎氏の指摘は、ポピュリズムみたいに大衆を一色に染め上げるというよりは、タコつぼ林立状態みたいなものになっている、という趣旨に読めました。すなふきんさんのご見解は、保守から「責任感」みたいなものがなくなって大衆迎合に堕しているんじゃないか、という危惧と理解しました。どっちがより適切な観察なのかわかりかねますが、どっちもさもありなん、という観はありますね。

Posted by: 山口 浩 | May 10, 2006 09:04 PM

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