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July 03, 2006

被害者実名報道の条件

2006年7月2日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で、実名報道に関する特集をやっていた。被害者の実名を公表すべきかどうかを警察が決めることについて「それは危険だ」と訴える内容のもの。要するに、警察は信用できないから、という理由のようだ。

悩み深いね。どちらもどちらだし。と思う向きもあるかもしれないが、被害者に関していうなら、ことはそんな複雑ではないと思う。

とりあえず、本件のおおもととなった内閣府の犯罪被害者等基本計画案(骨子)について。この中に、「警察による被害者の実名発表、匿名発表について、『個別具体的な案件ごとに適切な発表内容となるよう配慮していく』」というくだりがある。これに対して、日本新聞協会が2005年10月21日付で意見書を出している。新聞に限らず、メディア各社共通の見解と考えて差し支えないだろう。

…日本新聞協会は反対し、削除を求める。被害者は実名で発表されなければならない、とわれわれは考えるからである。

「されなければならない」ときたか。さてそれがなぜかというと、こう。

実名のない被害者は、その存在さえ容易には確認できず、本人や周辺からの取材もできない。確認できない事柄を無責任に報道することはできない。われわれが実名発表を求める理由はここに尽きる。事件や事故を正確に、客観的に取材、検証し、報道するために、実名は欠かせないのである。

「確認できない事柄」。

「警察に確認した事柄」を鵜呑みにして報道し、結果としてちがっていたという事例を挙げ、「サンデープロジェクト」では「警察のせい」と言っていた。それは「確認」したことになるのかならないのか。「なる」というならそもそも被害者の実名は必要ないし、「ならない」というなら今は「無責任」に報道していることになる。どっちなんだろうか。意見書はこう続く。

発表された被害者の実名をそのまま報道するかどうか、これはまたまったく別の問題である。被害者の安全にかかわる場合はもちろん、プライバシー侵害や何らかの二次被害のおそれがある場合は、当然、匿名で報道する。被害者から要望があれば被害者と誠実に話し合い、警察が被害者の声を仲介する場合は警察と真摯(しんし)に協議する。

ここが核心。選択権をメディアに与えよ、というのが主張だ。しかし被害者の実名に関していうと、最優先されるべきは、メディアの意向でも警察の意向でもなく、被害者ないしその関係者の意向だ、と思うがちがうだろうか。仮に、被害者の中に、できるだけそっとしておいてほしいと思う人がいたとしよう。警察には接しなければならない。捜査上必要だからだ。そのうえにマスメディアにも接しなければならないのか?「マスメディア」といったって1社や2社ではない。新聞、テレビ、ラジオ、週刊誌、その他もろもろ。人数でいったら100人を超えることだって珍しくない。それにいちいち対応しなければならないこと自体が既に「二次被害」なのだ。警察に頼んで「そっとしておいてくれ」と言ってもらいたくなるのは当然ではないか。「代表取材だってできる」というなら、最初に取材に行く前にまず報道関係者全員で話し合えばいい。被害者と誠実に話し合っているなら、「メディアスクラム」なんてことばはできなかったはずだ。

では逆に、被害者が実名報道を希望しているとしたらどうか。警察に判断を任せると、取材が不可能になるのだろうか。そんなわけがない。一刻も早い被疑者逮捕を望む、再発防止のため世間に訴えたい等、被害者が実名公表を望むケースも少なくないだろう。もし被害者が望んでいるなら、たとえ警察が隠したとしても、被害者が新聞社なりテレビ局なりに1本電話すればいい。「話をしたい」と。つまり、そもそも警察には被害者が公表を望む情報を隠すことなどできないはずだ。メディアが警察を盲信して他の情報をシャットアウトしていない限りは。新聞協会の意見書にあるように、マスメディアが本当に「確認できない事柄を無責任に報道することはできない」と考えているなら、被害者が警察に伝えた意向によって警察が実名公表の是非を判断するとしても、問題はないはずではないか。新聞社にとって何が問題なんだろうか?ここがわからない。さっぱりわからない。

被害者の実名は、この社会で現に起きた事実の核をなす情報である。それを国民に知らせるか知らせないか、警察に最終判断を任せていいのだろうか。われわれは、警察に限らず行政当局が、国民にかかわる情報を、随意にコントロールする社会に不安を覚える。

私も不安だ。行政当局に限らずマスメディアが、国民にかかわる情報を、随意にコントロールする社会に。何せ私たちは、行政当局による過ちに負けない数の、勝るとも劣らない深刻度の、マスメディアによる過ちの実例があることを知っているのだ。

事件・事故の報道は、広く社会全体でその悲しみや怒りを共有し、社会が一体となって背景にある原因を考え、再発防止、根絶に向け取り組むために必要なものだと信じる。その使命を果たすために、報道に起因する諸問題については、報道機関が自主的、自律的に判断し、結果の責任もまた正面から引き受ける。われわれは、これまでもそうあろうと努めてきたし、今後もさらに努力を重ねたいと考えている。

ここも、もうひとつの核心部分だと思う。ただしこっちはマスメディアだけでなく、私たち自身にも突きつけられた課題だ。私たちは、被害者の実名を知らなければ、「広く社会全体でその悲しみや怒りを共有」することができないのだろうか。広島で殺害された木下あいりちゃんのケースのように、被害者やそのご家族などが知られることを望んでいるならともかく、私たちは、関係者が公表を望んでいない場合に、その意思を踏みにじってまで、被害者の実名を知る必要があるのだろうか。知ったことで被害者は、私たちは、どんなメリットを受けたのか。それは被害者名が「知られる」ことや、その過程や結果においてしばしば生じるメディアスクラムによるデメリットよりも大きいのか。

私が不勉強なんだろうが、この点に関して納得できる理屈に今まで出会ったことがない。「サンデープロジェクト」の主張も、まったく理解できなかった。番組が挙げた「警察が情報を握ることの危険性」の実例の数々も、被害者の実名公表問題に即していうなら、むしろ「マスメディアがいかに警察の情報を鵜呑みにしているか」の実例にしか見えなかったのだ。

私は別に、マスメディアが全部だめだとか、警察のほうが信用できるとか言いたいわけではない。どちらもその多くはきわめて優れた組織であって、その構成員も概ね極めて優秀かつ社会的使命を強く持ったすばらしい人たちだ。しかしそれでも人間の組織だから、完璧ではないし、中にはあまり良質とはいいかねる組織や個人もいる。だから個別ケースとして、しばしば問題が起きる。警察も、マスメディアも。それは彼らの社会への貢献をすべて無にしてしまうようなものではもちろんないが、きわめて大きく深刻な問題であることもまた事実だ。それを前提として、どうあるべきかを考えなくてはいけない。この問題でもそうだが、たいていの策にはいい面と悪い面がある。だから考えなくてはならないのは、「いいか、悪いか」の二択問題ではなく、「いい面と悪い面のどちらが相対的により重要か」だし、「そもそも」で始まる一般論ではなく、「この場合は」で始まる個別論だ。

犯罪被害者の実名公表に関しては、「どうしたら被害者ないしその関係者の意向が最大限生かされるか」が考慮すべき最も重要な要素なのではないか。「被害者が自ら公表する」という方法が可能であり、かつ少なからぬ被害者が公表を望まないらしいという認識をベースにすれば、警察を情報の一次的窓口とするほうが、マスメディア各社がてんでばらばらに判断するこれまでのスタイルよりもはるかにましだと思う。

この問題には専門家の方がたくさんいるはずだ。詳しい方、もしちがうというなら、ぜひ教えていただきたい。

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