« 今夜は大前節を肴に | Main | Googleさんそれはいかがなものかと »

August 13, 2006

「ITデフレ」って何?

2006年8月12日の朝日新聞で「ITデフレ」ということばを見つけて「ん?」と思った。そんなことばあるんかいと思ってGoogleで検索したら、271件もヒットした。そんなにたくさん使われてるのか。

でもこれ、おかしいよねぇ。

このことばを見つけたのは、経済面の「脱デフレへ内需堅実」という記事についていた、秋草直之 電子情報技術産業協会長(富士通会長)のコメント「ITデフレ なお厳しい」だ。曰く:

日本経済全体で見れば、デフレはとっくに終わっていると思う。しかし、IT・家電業界の経営者はまだ悲鳴を上げているのが事実だ。 たとえば、プラズマディスプレーはいったん価格下落が収まりかけたが、韓国勢の猛攻を受け再び下落している。国内では消費者に近い取引ほど値下げ圧力が依然高い。こうした構造を根本から変えない限り、デフレからは抜けれられない。

あのー?この引用部分の中で、記事本文の主題である「デフレ」に関係するのは最初の一文だけだよね?その文章の「デフレ」と、最後の文章の「デフレ」はちがうものだよね?最後の文章の「デフレ」は、デフレじゃないよね?

一応念のためだが、大辞林による「デフレ」の定義はこう

貨幣および信用供給の収縮によって、貨幣供給量が流通に必要な量を下回ることから生ずる一般的物価水準の下落のこと。生産水準の低下と失業の増加が起こり、景気後退や不況に結びついてゆく。

要するに、デフレは「一般的」な物価水準の下落だ。個々の製品や個別の産業に対して「デフレ」とはいわない。デフレの問題点は、モノとおカネのバランスが崩れて、モノの相対的な価値が下がっていくために、モノが売れない→価格下落→企業業績悪化→労働者の所得下落→モノが売れない、というスパイラルが生じることだ。スパイラルになるのは、これが経済というひとつの「閉鎖系」の中で生じるから。要するに、ほかに「逃げ道」がない、ということだ。全体としてのフィードバックメカニズムが働いていないと、こうはならない。量的緩和政策やら規制緩和やらといった政策は、こうした「デフレ」を克服するために行われたもので、「閉鎖系」の中の循環量なり速度なりを上げるための方策だったわけだ。

秋草氏のいう「ITデフレ」は、このようなものではない。単にIT業界各社が価格下落圧力に苦しんでいて、なかなかもうからないといっているわけだだが、それは「デフレ」ではない。IT産業は経済全体の中では重要だが一部を占めるにすぎないから、IT産業は経済全体の中では閉鎖系でなく開放系だ。IT産業から「逃げ出した」マネーは、消えてなくなるのではなく、その他の領域、たとえば介護サービスだったり不動産だったり自動車だったりに流れている。それが「日本経済全体で見れば、デフレはとっくに終わっている」の意味だ。経済全体がデフレであってもインフレであっても、細部をみれば価格が上がっているところ下がっているところ、両方があって当たり前だ。それをいちいち「デフレ」とか「インフレ」とか呼んでいたらきりがない。だったら今は「不動産インフレ」で「タクシーデフレ」だし、「セブンイレブンのペットボトル飲料価格デフレ」で「東京都の公衆浴場入浴料金インフレ」だ。多くの家庭のそれぞれで、「○○家における子供の教育費インフレ」やら「△△家におけるだんなのこづかいデフレ」やらが生じているだろう。

こういうのを、「デフレ」とは呼ばない。業界なりの事情やら悩みやらがあるのはわかるし、それはけっこう重要な問題だとは思うが、それは個別財・サービス価格の変動であって「デフレ」ではない。その差は、たとえてみれば、おでんとはんぺんの差のようなものだ。はんぺんがどれだけ大きくても、どれだけ高級でも、それだけではおでんではない。おでんとはんぺんを同一視するような議論はミスリーディングだから、ぜひやめてもらいたい。でもこれはコメントをした人というよりはむしろ、デフレ脱却の記事に並べて「ITデフレ」を語ったコメントを載せること自体の問題、つまり編集サイドの問題かもしれない。経済部の記者さんだからもちろんわかってやってるんだろうが、だとすれば印象を誘導するために狙ったけっこう「悪質」なものとはいえないか。記事本文には今後の懸念材料として米国経済の軟化やそれに起因するIT産業の生産調整が挙げられていて、だから富士通会長のコメントをとったのだろうが、肝心の生産調整に関する考えは、コメントには一切示されていない。聞かなかったのだろうか?だったら意味ないじゃん。IT業界の価格転嫁力に課題が多いことは、わざわざこの記事を読むような人だったらかなりの高確率でもう知ってるんだから。どうも刺身を醤油抜きで出されたような不満感が残る。

こういうのが国民の間に「『光と影』の呪縛」を蔓延させる原動力なんじゃないか、と思うんだが、どうだろうか。

※2006/8/17追記
この記事は「gooニュースブログヘッドライン」に配信しているが、そこにこんなコメントがついている。

特定の分野に絞ってインフレやらデフレやら語るのって、庶民レベルじゃ昔から結構使われているよね。
それを財界の偉い人が使うとなると物凄く安っぽくて視野が狭く感じるけど、元を正せば単にグローバルかローカルかの違いなだけで。日本じゃようやくデフレ脱却とか言われているが、それはあくまで日本ローカルでの話なのね。
IT分野限定とかでも、単にそういった分け方の延長なだけ。

申し訳ないが、2番目の文章はまちがい。問題はグローバルかローカルかといった地理的範囲の広さではなく、1つの通貨が通用する「閉じた」経済圏かどうか、という点。たいていの場合国単位で語られるのはそのため。もしIT業界が他の業界から途絶した「IT国」で、独自の通貨単位「IT」をもっているとかいうなら話は別だが、そうでなければ業界単位で語るのは不適切。「デフレ」が単に価格が下がるという意味ではなくモノと通貨のバランスの崩れから発生する現象であることは、覚えておくといいと思う。

あ、「リストラ」と「restructuring」の差みたいに、「デフレ」は「deflation」とはちがう、というご主張なら、それはありうる。今のところ、そういう用法が定着したという認識はないが、もしそういう事情があるならぜひご教示いただきたい。ただ私としては、日本語の独自性を認めないでもないが、あまりちがう用法が蔓延するのはどうもやりづらいな、と思う。「マンション」と「mansion」とか、「セレブ」と「celebrity」とか、「アイス」と「ice」とか、「布団」と「futon」(あ、これは逆か)とかいろいろあるが、どうもめんどくさいんだこういうの。

|

« 今夜は大前節を肴に | Main | Googleさんそれはいかがなものかと »

Comments

まあ、仰るとおりですが、日経系雑誌の副編集長が↓んなコラム書いてるくらいですから、"IT"と"デフレ"がくっついたことによって別、そういう意味の別の言葉に代わったということかと。:/

 -ITデフレへの対応,できていますか?
  http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20021111/1/

尚、
  秋葉→秋草
でありますので。
それはまあどうでもよいことでありますが、いちおう彼もムーアの法則くらいは知ってるはずです、多分。:p

でもせめて"チープ革命"って言葉くらい使ってほしかったですねえ、ITな業界の人たちには。:/

Posted by: ゾフィ | August 13, 2006 02:33 AM

ゾフィさん、コメントありがとうございます。

>"IT"と"デフレ"がくっついたことによって別、そういう意味の別の言葉に代わったということかと。:/

いや、それはわかるんです。「ITデフレ」だけ独立して出てくるのであれば混同はしません。ここでの問題は、本来の意味のデフレに関する記事に対するコメントとして「ITデフレ」が出てきていることで、だから編集側に問題があるのではないか、と書いたわけです。これは「悪質」な印象の誘導ではないか、と。

秋草会長のお名前の件、ご指摘ありがとうございます。転記ミスです。さっそく修正しました。業界人としては、知っていてもチープ革命なんて認めたくないのではないでしょうかね。部下の皆さんの「尽力」が見えているだけに。「デフレ」と表現すると、価格下落・低迷の原因には目が向かなくなります。この点こそが問題の本質ですね、きっと。

Posted by: 山口 浩 | August 13, 2006 02:51 AM

「ITデフレ」をGoogle検索するなら、"ITデフレ"と二重引用符でくくらないと、「IT」と「デフレ」の二つが入ったページが全部引っかかってしまいますが...
(検索結果をほんのちょっと見るだけですぐ気づくべき事です)

"ITデフレ"で検索すると270件になります。

Posted by: Feanor | August 13, 2006 03:48 AM

もちろん現場の記者はわかってるはずです。これは変だと。
 しかし秋草氏の紡ぐ語録は強烈なので、読者も今度はどんな芸が出るのかと期待しているのです。
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/~lepton/program/p1/prog199.html
http://slashdot.jp/article.pl?sid=01/10/15/183202

組織の信用を失墜させるような失言をそのまま流されても「あの人なら言うかも知れない」で済んでしまう。これは森元首相に匹敵する芸風です。

Posted by: s-yamane | August 13, 2006 04:09 AM

コメントありがとうございます。

Feanorさん
ご教示ありがとうございます。すいません無知なもので。お教えに従って修正しました。まあこの程度の人物であるとお考えください。とりあえず、文章の本旨には大きく影響はしなさそうなので、その他の部分はそのままにします。

s-yamaneさん
「芸風」ですか。昔、ガ島通信の藤代さんが「自爆炎上型」ということばを使ってましたけど、その類というわけですね。となるとますますこの人にコメントを頼んだのは「確信犯」ということになりますな。

Posted by: 山口 浩 | August 13, 2006 09:40 AM

>ここでの問題は、本来の意味のデフレに関する記事に対するコメントとして「ITデフレ」が出てきていることで、だから編集側に問題があるのではないか、と書いたわけです。

あ、それはそうですね。どうもすみません。

でも発言者がアッキーである点で、言った方がわかってない!に500タラントです。:p

尚、
>部下の皆さんの「尽力」が見えているだけに。

これはすごい皮肉だなーと思いましたよ。山口さんもやるなあ!と。:)

Posted by: zoffy | August 14, 2006 04:01 PM

zoffyさん
「有名」なんでしょうからね。
「尽力」については、どうおとりいただいてもいいです。こういう玉虫色は大好きですから。ただ、えらい人の場合、外向きに言っていることを本当に考えているかどうか、ちょっとわからないところがあるのではないでしょうか。この方の場合どうなのか知りませんが。

Posted by: 山口 浩 | August 14, 2006 11:56 PM

The comments to this entry are closed.

TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 「ITデフレ」って何?:

« 今夜は大前節を肴に | Main | Googleさんそれはいかがなものかと »