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October 29, 2006

私は石を投げるべき人なんだろうか?

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
―ヨハネによる福音書 / 8章 7節(新共同訳

私はキリスト教信者ではないし、このことばにこめられた宗教的な意味合いとかもよくはわかっていない。ただ、このエピソードとこのことばを字面だけ読んで、一般の日本語として解釈しているだけだ。それでも、このことばには、考えさせられるものがある。自分の内面に向かわせる力がある。

私を知っている人は知っていると思うが、私はけっこう怒りっぽい。誰かが悪いことをしたという話を聞いたとき、「こいつら許せない」と思うことがよくある。「人でなしめ」「このまま野放しなんて許せない」「クビにしろ」なんて思うこともざらだ。自分で書いたりすることはないと思うが、ネットでそんな書き込みを見かけると、「そうだそうだ」なんて思ったりもする。

それでも収まらないときもあって、そういうときは自分の内側でどんどん怒りが増幅していく。「見逃した家族も同罪だ」「徹底的にやれ」なんて思う。それでも、「プライバシーをさらしてやりたい」「職場に電話をかけてやる」「社会的に抹殺しないと気がすまない」「こんなやつ、死んでしまえばいいのに」「誰か奴らの家に火をつけてくれないか」なんてあたりまでいくと、はっと我に返る。いやそれはさすがに行き過ぎだろう、と。

で、今度は考えこむ。どこからが「行き過ぎ」になるんだろうか、と。

内面で思うのはもちろん自由だが、外に出すときにはそうはいかない。ブログとか掲示板とか、ネットに書き込む場合で考えてみる。ネットに「これはひどい」と書くのは、問題なかろう。では「これは殺人にあたるのではないか」は?それなりに根拠があるなら、まあ許容範囲と考えていいのではないかと思う。しかし「死ねよこいつ」とかいうのは、たとえ法的には許容範囲でも私はやりたくない。名指しで「殺してやる」と書いたら、法的にもまずいかもしれない。

そうやってつらつら考えると、私たちの社会にはすでにそれなりのルールがあるよな、という当たり前の事実に思い当たる。意見を表明するのは基本的に自由だ。しかし他人に危害を加えたり、危害を加えるぞと宣告したり、名誉を不当に傷つけたり、むやみにプライバシーをあばいたりするのは、社会のルールとして許容されていない。この国の現在の法律は、自力救済や私的報復を禁じている。無関係の他人ならなおさらだ。権利の侵害は、法律の根拠をもって、それを執行すべく任ぜられた専門の人々によって行われるべきものだ。石を投げるのは、私たちの仕事ではない。

いや、そういう大上段の説教くさい話をしたいのではない。わざわざ聖書のことばをもってきたのは、私はその種の状況に出くわしたとき、むしろ自分への問いかけとして「石」の話を思い出すからだ。仮に私が石を投げたとしたら、それはいったい何のためなんだろうか。法律に決められたペナルティだけでは足りないと思うから?悪い奴らをもっとドン底に突き落としてやらなければ気がすまないから?それって被害者の救済とか鎮魂とかのためなんだろうか。単に自分が溜飲を下げていい気持ちになりたいからではないのか?と。それ以前にもっていたなんらかの不満なんかを石にこめようとしているのではないか?と。

で、口に出して言ってみる。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と。私は本当に、この石を投げるべき人なんだろうか?そうでないのに投げたとしたら、今度は私が「罪を犯した」ことになるのではないだろうか?

こんなふうに考えをめぐらせたりするのは、ひょっとしたら、私が宗教に入信していないからかもしれない。実際のところ、宗教というのは、こうした際にきわめて有効だ。多くの宗教では、現在の世界に続く死後の世界をなんらか想定し、現在の世界での行いが、次の世界での処遇のよしあしにつながる、と教える。悪いことをすればそのつけは来世で払う、というわけで、いってみれば繰り返しゲームにおいては均衡解が異なる、みたいなものだ。効果抜群とまでは必ずしもいえないが、悪いことをしようとしている人に対してある程度の抑止力になるだけでなく、同時に悪いことをしていない人が「無間地獄」に陥る危険から救うこともできる。奴らは来世でつけを払うのだから、私たちが手を下す必要はない、と。つくづく昔の人はうまいことを考えたものだと思う。

別に宗教に入ろうといっているのではない。悪いことをしたやつを許せといっているのでもない。ただ、石を投げる前にはよく自分に問いかけてみたらどうだろう、といいたいだけだ。それは私がすべきことなのか?私がやっていいのか?私は何のためにそうしようとしているのか?みたいに。

かなり前に、まったくちがった文脈で似たようなことを書いたことがある。やはり自分は進歩していないのだな、といまさらながら思うが、変わってないんだな、とちょっとうれしくあったりもする。これもまた、いまさら。

※2006/10/29追記
聖書のことばを引用したのは正直失敗だったみたい。本題よりもそのあたりで「ちがう」みたいな話があちこちで書かれていて、けっこうへこんだ。文章の冒頭に「このエピソードとこのことばを字面だけ読んで、一般の日本語として解釈し」たもの、とことわっておいたのはほとんど意識に残らないらしい。まあいまさら何を書いても言い訳。わかりにくい文章を書いた時点でだめだめなのはあきらか。申し訳ない。

404 blog not found」にもとりあげられていて、コメントを書こうと思ったら文字数オーバーになってしまったので、こちらに書いてトラックバックすることにする。

danさんはもちろん私が「sin」と「crime」のちがいぐらいは知った上でこの2つのちがいにはまったく関係なく書いていると了解した上で書かれているのだと思うが。

danさんがいわれる「誤訳」については、ぜひ財団法人日本聖書協会に教えてさしあげるとよかろう。引用したのは新共同訳だ。この新共同訳聖書がいかにして作られたかはこのページを参照。新共同訳が「罪のない者」ではなく「罪を犯したことのない者」としているのは当然意図があるのだろうが(意図はだいたい想像がつく)、おそらく信者的にはほぼ区別なく受け取られるはずだ。この分野は素人だが、聖書の時代ではこの2つの罪の概念は区別すらなかったのではないか。

現代ではもちろん、必要に迫られてこの両者は区分されるわけだが、「sin」も「crime」も実際には人間が判定するのも皆さんご承知の通り。danさんご指摘の「区別できない」はそのためだ。過去および現在のキリスト教国家のもろもろについては、私も同感だが、これは仏教でもイスラム教でもある程度はいえることなので、これも「sin」と「crime」の混同だけに帰するのはかなり強引ではないかと思う。

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Comments

その話は初期の写本には存在しないというので史実かどうかも疑わしいのですし、史実だとしても、準拠法(ローマ法かユダヤ律法か)を訊かれてはぐらかした答えをしたものと思います。
http://www.jca.apc.org/ymca-s/ymca-s-ML/article/0336.html

Posted by: みやど | January 06, 2007 07:36 PM

みやどさん、コメントありがとうございます。
本文をお読みいただければわかると思いますが、この文章はこのエピソードが史実かどうかを論じるものでも、このエピソードによってキリスト教の布教者たちが何を言いたかったかを論じるものでもありません。念のため。

Posted by: 山口 浩 | January 06, 2007 08:05 PM

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