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教育三題

2006年11月18日付朝日新聞「私の視点ウィークエンド」に、教育をめぐるコラムが3つ出ていた。

最初は、防衛医科大学校教授の高橋祥友氏「いじめ自殺 報道は過熱せず腰すえて」。これは必読。さもありなんという話だが、やっぱり。相次ぐ未成年の自殺が「群発自殺」(心理学用語である由)であり、過熱報道は危険であると指摘している。で、群発自殺をどう報道したらいいかについては、WHOの提言を紹介している。

・自殺の原因を単純化しない
・自殺手段を詳細に伝えない
・事実を淡々と伝える
・予防のための具体的な対策を詳しく伝える
・自殺の危険から立ち直った例を紹介する

一部のマスメディアがやってるのはまさにこの反対、ということは群発自殺を助長する方向のことばかりではないか。高橋氏の以下の指摘は核心をズバリ。

私は精神科医として、自殺の背景にはさまざまな問題が存在することを日々実感している。しかし、マスメディアでは最近、子どもの自殺となると、「いじめ」をキーワードとして、それが唯一の原因であるかのように報道されている。これは1960年代に未成年者の自殺が生じるとかならずといってよいほど「受験地獄」が自殺の原因とひとくくりにされていたのと同じように感じられてならない。

こういう構図、マスコミを語るときには必ずついてまわるような気がするんだが、それって単なる偏見なんだろうか。そういえば、はてなに「マスコミはいじめ自殺を期待している」と考える人が81%、という結果が出ていたな。要するに、マスコミはいじめ自殺を「ネタ」として取り上げている、と考えている人が多いということだ。人々の関心を引くためのネタ、政府を批判するためのネタ。だから問題が深刻であればあるほど、続けば続くほどよい、ということになる。そうでないとするなら、あの取り上げ方はなんだ、と。遺族が情報の公表を望んでいるケースもあるのだろうが、もしそれが群発自殺を誘発するおそれがあると知っていたら、WHOの提言に反するような、詳細な内容の公表を望む方はほとんどいないのではないかと思う。

2つめはOECD教育局局長のバーバラ・イッシンガー氏「再チャレンジ 経験は『ソフトな財産』だ」。これも面白い。経済改革がもたらす教育政策への影響を「再チャレンジ社会」の視点から考える、というもの。「再」チャレンジだから、カギは生涯教育の分野。学生やフリーター、ニート、社会人、高齢者といったさまざまな人が社会の中で、講座などを通じて、あるいは現場で、さまざまな経験を積み重ねている。これをもっと積極的に生かしていこうというもの。

従来、こうした「経験」で積み重ねてきた技術や能力は十分評価されてこなかったが。だが、こういった能力こそが新たな人生の機会を切り開きうる「ソフトな財」である。
米国や英国やカナダでは、大学がこの「ソフトな財」を「経験的学習結果認定」という制度の下で評価し、社会人が再び大学に戻って勉強し直す動機付けになっている。この制度ではすでに経験で得た知識は「単位」として認定されているため、その分だけ授業料を節約できる。

競争の果実を享受しつつその弊害を減らしていこうというプラクティカルな考え方。各国で実際に行われている手法であるというのが強い。国によって事情がちがったりはするだろうが、いろいろ試してみるといいと思う。

3つめは元文部科学省大臣官房審議官の寺脇研氏「公教育 競争力より信頼度高めよ」。あの「ゆとり教育」の教祖様だ。最近辞めたとは聞いたのだがまだ再就職していないのだろうか。最近いろいろ検討されている、教育バウチャーや教員の外部評価なんかについて、こう書いている。

学校を民間企業や商店と同じ市場原理に沿った競争にさらされる教育サービス機関と割り切るのか、地域に根ざし高い公共性を求められる公共教育機関であることを堅持するのか、その岐路に立っている。

当然この人は後者のご意見で、「学校は市場性ではなく公共性によって支えられるべきである」としている。「市場性」と「公共性」を正反対のようにとらえる考え方に対しては、経営学を研究する者として断固反論したいところだが、そこはひとまずおいといて。

どうもこの人は、「教育」が学校以外の場所でも行われていることとか、教育が教育以外のものの影響を受けることなんかをあまり考えていないらしい。学校から競争の要素を取り除いたとしても、それだけで社会から競争がなくなるわけではない。だからこそ教育(「学校教育」ではなく)から競争が取り除かれることはなく、学校の外である塾やらなにやらの教育サービス産業に教育の場が一部移ってきているのではないか。そもそも、以前の学校に競争がなかったかのような書きぶりはいったい何だろう。「受験戦争」ということばは、この人が旧文部省に入った1975年よりずっと前からあったはずなのに。

ま、いいや。人の数だけ考え方はあるし、意見が割れやすいテーマでもあるし。特段のオチもなく、本日はここまで。

※追記
群発自殺については、高橋祥友氏の著書があるようだ。

寺脇研氏も、いじめに関する著書があるらしい。

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Tracked on November 19, 2006 at 06:28 PM

Comments

いつも興味深く拝見しております。

寺脇氏ですが、以前は生涯学習の部署にいらっしゃったと記憶しています。あと、今後は教育系NPOで活動されるそうで、山口先生の『「教育」が学校以外の場所でも行われていることを考えていない』というご批判は当たらないのではないかと思いますが。

Posted by: Dryad | November 19, 2006 at 11:28 PM

Dryadさん、コメントありがとうございます。
もちろん専門家ですから、知らないはずはありません。ご指摘のように、学校以外の場での教育についても当然考えておられるでしょう。私が「あまり考えていないのではないか」と書いたのは、そのことが学校教育に与える影響についてどのくらい重要と考えていたか、という点です。学校のカリキュラムに「ゆとり」を持たせても、それが社会とマッチしていなければ、生徒たちはそれをどこか別の場所で補わなければなりません。教育産業の隆盛がそのことを物語っています。学校間の競争は、生徒間の競争の直接の反映です。したがって、学校を競争にさらすなという主張は、失礼な表現で申し訳ありませんが、生徒たちの競争に巻き込まれたくないという逃げか、日本全体から競争をなくしてしまえという極論かのどちらかであるように私には思えます。

Posted by: 山口 浩 | November 20, 2006 at 09:37 AM

ご本人ではないので、その辺をどうお考えなのかは断言できませんが、日能研の社長と対談したりしていたりするのを見るに、「(競争は)公教育の役目ではない」という程度なのかもしれません。記事でも書かれていましたが、競争原理による淘汰よりも、地域コミュニティを中心とした学校評価による改善を重視されているのでしょう。

彼の発言を追いかけていると、彼は「反詰め込み」というよりかなりラディカルな教育自由化論者なんですが、その辺がかなり誤解されていると感じています。ここ5年くらい単著がないですが、最近では『教育「真」論』という宮台真司氏が絨毯爆撃のように(笑)語り続ける対談集に寺脇氏が登場しているので、機会があれば一読されると面白いかと思います。

あと、私自身は競争原理による淘汰には基本的に賛成です。多様な選択肢が用意されるこのは良いことですし、もう、そのくらいしないと現状の学校制度を変えることはできないように思うので。

Posted by: Dryad | November 20, 2006 at 08:37 PM

Dryadさん
そうなんですか。私には「ゆとり教育」の印象が強くて。以前は「これだけやればいい」だったのが、いつの間にか「これは最低限で」に変わったので、いったいどういうことなんじゃい、と思っていました。考えてみれば、ゆとり教育はあの人個人の持論というよりむしろ旧文部省の長年のテーマだったわけですよね。そのへんで組織と個人のご意見をごっちゃに考えてしまったのかもしれません。ただ、いずれにせよ、出口のその先をどうにかしない限り、学校教育の内容だけでやるのは難しいと思います。
私には、「競争原理による淘汰」は「地域コミュニティによる学校評価を通じた改善」の一類型であるようにしかみえません。何を媒体として評価を伝えるか、ですね。

Posted by: 山口 浩 | November 21, 2006 at 08:04 AM

実際、寺脇氏の原点が「反詰め込み」であることは間違いないですし、彼の口癖は「私の見解は文科省の見解」でしたが、確認できる範囲でも1999年の朝日新聞で「階層化論」の苅谷剛彦氏と対談された際には、既に「最低基準」と発言しています。

しかし、彼の意見に従えば、例えば(大分緩和されてきてはいますが)教科書検定制度は既に廃止されていてもおかしくないですし、「(究極的には)文科省はいらなくなる」みたいな発言が本当に省全体の支持が背景にあったのかは疑問が多いです。結局、「中曽根臨教審」を根拠として、唯一外部に顔出ししている文部官僚としての立場を生かし、省の方針を誘導していたのかもしれないな、と個人的には思います。

何にしろ、教育問題が「ゆとり」vs「詰め込み」の二元論として捉えられているうちは、彼の自由化論が注目されることはないし、公教育と地域と教育サービス産業の分担みたいなことも議論されないのだろうな、と半ば諦観しています。こと教育に関しては、ネットの議論も「お話にならない」レベルですし。

そもそも教育現場からして、昔ながらの「お上の指示待ち」症候群で硬直している以上、競争原理による荒療治が必要なのではないか、というのが私の意見です。現場レベルで「独自にカリキュラムを考える」ということが定着しないと、いくら制度的に自由化されても何も変わることはできないので。5年も不毛な受験戦争をやれば、自動的にその辺が醸成されてくるのではないかと期待しています。

Posted by: Dryad | November 21, 2006 at 01:37 PM

あと、山口先生にお伺いしたいことが一つあります。

教育に競争原理的制度が導入された場合、その最初期には「受験戦争」モードになる学校が主流になることは不可避だと思っているのですが、この予測は正しいでしょうか。

また、仮にこれを回避しようとするなら、どのような施策が有効なのでしょうか?または、回避する必要はないとお考えでしょうか?

Posted by: Dryad | November 21, 2006 at 01:52 PM

Dryadさん
確かに、ゆとり教育は、寺脇氏入省当時の中央教育審議会答申にもすでに出ている数十年来の問題でしたからね。寺脇氏の考えはそういう教育内容削減の流れとはやや離れたところにあったんでしょう。
ただ、もし氏の理想が自由化にあったのなら、それを実現するための道具として「ゆとり教育」を使ったのは必ずしも適切ではなかったのではないか、と思ったりはします。手元にあった「道具」を使ったという感じなんですかね。
ご質問については、教育制度には門外漢ですのでなんともいいがたいのですが、思いつきをいくつか。
受験戦争というのは、個人レベルの競争ですから、小中高の教育課程をいじったから発生したり消滅したりするものではなく、大学を出た後の就職において出身大学が大きな影響力を持つことからくる部分が大きいと思っています。
学校レベルの競争は、基本的に学校というものが定員を持つしくみである以上、航空会社やホテル間の競争のように、一定のすみわけを前提としたものになると思いますがいかがでしょう?それに、学習指導要領による縛りもあるわけですよね?
そのギャップを塾などが埋めているのが現状なわけで、その一部が学校に持ち込まれたとしても、学校経営の面で影響が出るとは思いますが、生徒たちが直面している競争自体の本質はあまり変わらないように思います。

Posted by: 山口 浩 | November 22, 2006 at 10:00 AM

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