暴論:「正義の味方」こそ規制すべきなのではないか
テレビやゲームの暴力シーンが子どもの暴力性やら何やらを助長する、という例の話について、前々から腑に落ちないことがあった。確たる根拠というより、感覚的に「ちがう」と感じていたことだ。
正確にいうと、まったく根拠のない話ではない。以前メディアにも登場したが、ヒーローものが子どもの攻撃性を助長する、というお茶の水女子大の坂元章教授の研究。この分野は専門外だし、坂元教授自身も「さらに検証していく必要がある」と述べているようなので、これをもって断定すべきという筋合いでもないようだが。ともあれIGDAサイトに出ている引用部分を孫引用。
坂元教授らは2001年11月から12月にかけて、神奈川県や新潟県などの小学5年生を対象に、よく遊ぶテレビゲームと攻撃性に関するアンケートを実施、1年後に同じ児童に追跡調査を行い、周囲の人への敵対心を表す「敵意」など、攻撃性に関する5つの指標について、その変化を調べた。 6校の児童592人についての調査結果を分析すると、知的だったり、見た目がかっこよかったり、魅力的な特徴を持つ主人公が登場し、攻撃するゲームでよく遊んでいた児童は、1年後に「敵意」が上昇していた。 「ひどいことをした悪者に報復する」という、暴力を正当化するゲームでよく遊んでいた児童も同様に「敵意」が高くなっていた。 これに対して、攻撃回数が多い、たくさんの人を攻撃するなど、暴力描写の程度が高いゲームで遊んでいる児童の場合は、研究チームの予想とは反対に、むしろ攻撃性が低下していた。 この結果を坂元教授は「かっこいい正義の味方だと、プレーヤーが自己同一視しやすいため」と分析している。
あくまで素人としての見解に過ぎないが、よくある「暴力的なゲームが子どもの暴力性を助長する」という主張よりもこちらのほうがはるかに説得力がある。子どものころを思い出していただきたい。「悪者ごっこ」をしたことがあるだろうか。自分が悪者になって悪さをする遊びが楽しいだろうか。もちろんそういう子も中にはいるかもしれないが、大半はちがうはずだ。多くの子どもは、正義の味方になりたがる。誰も悪者役はやりたがらない。少なくとも私の子どものころはそうだった。今も大きくは変わっていないと思う。
相手をやっつけていいのは「正義の味方」だ。正義の味方だからこそ、「悪者」に対して暴力をふるうことを許される。悪者は悪いことをするから、やっつけられても文句はいえない。それから、昔はそうでもなかったが、今は割と、悪い奴をやっつけるのなら、正義の味方が多人数で立ち向かうのも許される。そういうルールだ。もしそれがそのまま子どもの遊びに取り入れられ、、ある特定の子どもが「正義の味方」に、別の特定の子どもが「悪者」となるといった「役割の固定」があったとしたら、それは暴力以外の何だというのか。そういうのを「いじめ」と呼ぶのではないのか。
もしそうなら、問題とすべきは暴力表現よりむしろ、「正義の味方」表現なのではないか、ということになる。顔が食品でできているあのヒーローも、5人で悪者をよってたかって痛めつけるあの戦隊ヒーロー諸氏も、子どもにとって有害な存在となるのではないか。「悪者」とされた子どもへの暴力やいじめに対する心理的な免罪符を与えてしまっているのではないか、と。
もちろん、テレビやゲームといった映像コンテンツだけが影響を与えるといっているわけではない。むしろ家庭環境や周囲との関係などの影響のほうが大きいと思う。ここでの主張は、テレビやゲームの影響を考えるならば、より深刻なのは、一般的にイメージされがちな粗暴なものよりむしろ、正義の味方が活躍するもののほうではないか、ということだ。
もう一つ、子どもの暴力やいじめへの影響ということでいうと、テレビのバラエティ番組やお笑い番組での芸人いじりというのは、直感的、経験的にかなり「黒」に近い存在だと思う。私の知る限り、子どもの暴力のかなりの部分は、そうした番組で乱発される「つっこみ」だからだが、これについては別途とりあげることにしたいのでここでは省く。
ともあれ、私はこの分野では素人なので、子どもの暴力やいじめに対する「正義の味方」コンテンツの影響については、ぜひ専門家のより突っ込んだ検証を期待したい。しかしその前に、日常からごく近いところで子どもたちに接している皆さんにまず聞いてみたいとも思う。子どもたちが暴力をふるうとき、人をいじめるときはどんなときか。そのときの姿は、暴力的なテレビやゲームと、ヒーローもののテレビやゲームのどちらにより近いか、と。私自身の個人的な印象でいえば、圧倒的に後者なんだが。
※2006/12/26追記
誤解を招きそうなので言い訳っぽく注釈。私はテレビやゲームが暴力やいじめを引き起こすとか主要な原因であるとか主張しているつもりはない。私の基本的な考え方は以前このあたりに書いたことがあるが、多くの場合、主要な原因ではないのではないかと素人ながら推測している。もっと大きな要因が他にあるだろう、と。ただ、それではまったく影響がないかというと、たぶんそうでもないだろうと。で、影響があるとしたらどんなのだろうか、というのが上の文章。当然ながら、「正義の味方」ものを禁止しろというのが本意ではない。だからタイトルに「暴論」とつけたわけだ。どぎつい暴力表現のものがだめで正義の味方ものはいい、という区分は、少なくとも暴力やらいじめやらの防止という観点ではあまり有効ではないのではないか、というのが本旨。だったら最初からそう書けよ、といわれればその通り。申し訳ない。
The comments to this entry are closed.
Comments
正義の味方的ゲームやテレビって具体的に名前あげられますか?
Posted by: cyberbob:-) | December 26, 2006 01:02 PM
cyberbob:-)さん、コメントありがとうございます。
具体名は挙げません。本文中でもいくつかそれらしい記載をしましたが、それらを含め、「正義の味方」ものに属するものはすべからく含まれると思います。おそらくは、子供向けのものだけでなく、印籠を出す人や桜吹雪の刺青を見せる人なんかも。
日本の作品は、正義の味方の問題意識や悪者の葛藤なんかを掘り下げたものが多いので、その意味で「勧善懲悪」性は薄まっていたりします。アニメでは「殺す」の代わりに「やっつける」って言うみたいな配慮もしています。それでも、子供たちに「正義の味方が悪者をやっつける」という構図が植えつけられるのは変わりないのではないかと。
Posted by: 山口 浩 | December 26, 2006 01:51 PM
いつも楽しませていただいておりますが、はじめてコメントさせていただきます。
これも結局は、親がどう受け止めさせるかの問題じゃないんでしょうか。
どうして悪者がやっつけれられなければならないのか。。。
親子で一緒に、正義の味方的テレビを見る機会がないんだろうなぁ。って感じました。
子ども達はテレビを観た後、痛快だった正義の味方の話を聞いて欲しいはずなんですけどね。。。
Posted by: jamboo | December 26, 2006 01:58 PM
人はだれしも正義の鉄拳をふるいたがる欲望があるのではないかな、と思いました。
Posted by: g | December 26, 2006 07:32 PM
ややはずれた話かもしれませんが
テレビ番組の話で言うと
テレビでやることは社会で認められてること
と思うことが大人ですらありますよね。
テレビでやってること=してもいいこと。
テレビの中で芸人がイジメをやってれば
それはやってもいいことだと認識される。
こういうのが怖いです。
Posted by: とりばち | December 26, 2006 11:45 PM
基本的に代理経験は発達心理学上では通過儀礼のひとつなので,
それを規制するなんてとんでもない話だと思う.
また,暴力表現とイジメとの類推も拡大解釈だと思う.
「暴力神話」等でググれば分かるように,
そこには因果関係も相関関係も成立しない.
問題は表現自体にあるのではなくて,
その表現をどう感じ取ったのかという
受け手個々人の情動に関与することから,
一般化することはナンセンスだと個人的にはそう思う.
Posted by: hoge | December 27, 2006 02:12 PM
コメントありがとうございます。
jambooさん
親の責任は重大ですよね。
いじめが昔からあったことを考えると、この点に関しては、昔も今も親は充分な役割を果たしていない、ということなのかもしれません。
gさん
某国の指導者も、自分は正しく人民を導いていると思っているのでしょう。
とりばちさん
テレビの影響力って大きいですよね。特に子供には。漫才のつっこみがケンカのもとになっているケースをけっこうよく見ます。お笑い番組はPG13ぐらいにしてもいいのかも、なんて。
hogeさん
このサイトでやってる与太話程度ならいいんですが、ちゃんと検証しようと思うとそう単純な話ではないようです。このあたりは半ば都市伝説化してますから、きちんと検証していったほうがいいでしょうね。
Posted by: 山口 浩 | December 28, 2006 03:11 AM