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December 04, 2006

選ぶ喜び、選ばない幸せ

以下はとある書きものの原稿の一部。

旅行の楽しみの大半は、その準備段階にある、と誰かが言っていた。私もそう思う。旅行準備にもいろいろな作業があるだろうが、その中でも大きな楽しみといえば、やはり、どこに行こうか、何をしようかを選ぶことではないかと思う。行きたいところはいろいろあるが、どこにするか、どうやって回れば一番楽か。ここに行くならついでにここも。あ、そういえばここにも行きたかったんだっけ。そうそうあれは絶対買わなきゃ。とまあ、そういった具合だ。もちろん、たいていは予算やら時間やらの制約があって、完全に思い通りとはいかない。ここに行ったらあそこには行けないな。これやったら完全に予算オーバーだ。ああもう1日あったらいいのに、もっと貯金しとけばよかった、と。そういう取捨選択も楽しみのうち。

旅行に限らず、何かを選ぶことは楽しい。それは夢の実現であったり、欲望の充足であったり、安心の獲得であったりといろいろだが、いずれも楽しい。きっと、選ぶという行為自体が喜びなんだろう。とはいえ、いったん選んでしまうと、その喜びは長続きしないことがけっこうある。やっぱりあっちがよかったんじゃないか。いやこっちも捨てがたかったな。もう少しよく考えたほうがよかったんじゃないか。今から変えられないだろうか、と。車の広告を最も熱心に読むのは車を買った直後の人、なんていう話もよく聞く。無意識のうちに、自分の選択がまちがっていなかったことを確かめようとしていたり、あるいは自分に言い聞かせようとしていたりするものらしい。

考えてみれば当然のことなんだが、何かを選ぶという行為は、別の何かを選ばなかったということでもある。経済学で「機会費用」という考え方があるが、あれと同じだ。ある選択の価値は、それによって選択されなかったことの価値によって決まる。だから、選択をするときには、それを選択することによって得られる価値が、選択しなかった場合の価値を上回るか、少なくとも等しくなければならない。

ここでポイントとなるのは、その「選ばれなかった選択肢」なるものがたくさんある、ということだろう。千円でケーキを買うという選択によって失ったのは、同じ千円で可能なすべてのこと、まんじゅうやコーヒーといったあらゆる物品の購入機会だけでもなく、電車に乗るといった活動の機会だけでもなく、それら以外をも含めたすべてだ。もちろん、千円でそれらすべてを同時にできるわけではないが、その中から望ましい一つを選べたはずだったのは確かだ。いいかえれば、選択することによって失ったのは、特定の何かというより、「可能性」ということになる。

もしこの「可能性」の価値を失いたくないとすれば、どれも選択しない、という最後の選択肢に価値を見出すかもしれない。何も選択しないことで、なんでも選択できる状態を保つ、つまり「選ばない幸せ」を選ぶわけだ。リアルオプション理論をご存知の方は、この理論でいう「オプションの時間価値」、別の表現を使えば「柔軟性の価値」を思い出すかもしれない。

あるいは「モラトリアム人間」なんてことばを思い出す人もいるだろう。1978年のベストセラーになった「モラトリアム人間の時代」で、著者の小此木啓吾氏は、モラトリアム人間を「半人前意識の喪失」と分析している。かつての青年が、半人前意識ゆえに「早く大人になりたい」と考えたのに対して、モラトリアム人間は自らのおかれた立場に「全能性」を感じ、そのためモラトリアム期を脱したくないと考える、のだそうだ。最近だと、「働いたら負けかな」という発言が2ちゃんねるで話題になったが、これも少し似ているように思う。ここでの「全能性」は、まだ選択していないために残されている可能性を意識してのものだろう。「負け」というのは、たとえ残された選択肢が少なくても(あるいは「負け」る選択肢しか残されていなくても)、それを実際に選択するまでは「負け」ではない、という考え方と解釈するとわかりやすい。

もちろん、何がなんでも選ばなければならない状況ばかりではないから、「選ばない幸せ」は当然ありうるわけだが、それは一つの前提条件を暗黙裡に想定している。それは、「選択権は消滅しない」ということだ。実際には、そうでないケースが少なくない。たいていの選択権には、それをもたらす「源泉」がある。法律とか、契約とか、自分の能力とか、社会的な立場とか。きちんとした裏打ちのない選択権は、手元にとどめておくことができない。選ばずにおいておくと、選択肢そのものがなくなってしまったり、その価値が失われていったりしてしまうことがあるのだ。選択肢だと信じていたものが本当はもう存在しないかもしれない、という状況は、できれば見たくないだろうが、認めようが認めまいが、状況はおかまいなしに変化していく。目を閉じ耳をふさいでいるのも、それが許されるなら1つの手だが、私は別の手を考えたい。

もし何かを選択しなければならない状況にあるとしたら、できる限り、自分の可能性を広げるものを選びたい。「ワクワクに投資する」 という表現をブログで見かけたが、いいことばだと思う。可能性を広げるものは、人をワクワクさせる。選ぶことが他の選択肢を捨てることであるなら、できる限り、それよりもっと多くの選択肢への可能性を開くもの、選ぶ楽しみをさらに広げるものを選ぼう。逆にもし今は選ばずにいたいなら、その立場を維持するために最善の努力を払おう。そういうものならある程度値段が高くても納得できるし、努力だっていとわない。少なくとも私にとっては、そのほうが楽しいからだ。脳科学の分野では、人間は、ただで手に入れるより、なんらかの負担をして手に入れるほうを喜びと感じるしくみをもっているらしい、という研究成果がある。「選ぶ」も「選ばない」も、ただではない。だからこそ、楽しいのだ。たぶん。

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Comments

例えば、現状より苦しくなることや、利益のない方を選択するときもワクワクに投資するになるうだろうか?
楽しみを広げる訳ではない。結果も見えているわけでもない。課程すら予測不能・・ただ今のままじゃ嫌だという感情だけ。
そんな選択は経済ではあり得ないのでしょうね。
旅行の計画をたてても、目新しい物、事に飛びつく。
計画をたてるのもあまり好きではない。行き当たりばったりの選択をしても、それほど「あっちが良かったかも」という気持ちにこだわらない。
お先真っ暗でもきっと、「選ぶ」ほうを「選ぶ」と思う。

Posted by: tomo | December 04, 2006 05:16 PM

tomoさん、コメントありがとうございます。
何にワクワクするかは、いろいろなケースがあるのではないかと思います。一見、楽しみを広げるようには見えなくても、利益があるようには見えなくても、心の中でそれを求めているなら、どこかにワクワクの要素があるのかもしれません。
人間というのは、生来新しもの好きの性質があるそうです。変わること、変えること自体がワクワクなのかもしれませんね。

Posted by: 山口 浩 | December 05, 2006 01:06 AM

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