「ネットvs.リアルの衝突:誰がウェブ2.0を制するか」
佐々木俊尚著「ネットvs.リアルの衝突:誰がウェブ2.0を制するか」文春新書、2006年。
いただきもの。佐々木さんとは、オーマイニュースに関するイベントでご一緒したことがある。これまた不勉強で前著の「グーグル」は読んでいないので、これが初めての佐々木本。
なんだかとっても血圧の高そうな、というのが第一印象。著者の、ではなく本の「血圧」が。本を人間にたとえるのも変だが、額に血管が盛り上がってるような感じ。お会いしたときの佐々木さんご本人の印象は、「熱い系」の人だなというのはあったが別に(言論の)血圧が高そうな感じではなかったので、その意味ではちょっと「意外」だった。
以前から佐々木さんの著作をご存知の方にはそういう意外感はないらしい。話を聞いた数人の方からは「あの人らしい」という感想を聞いた。前作の「グーグル」もそうなのだろうか。
血圧の高そうな感じは、本を開く前から伝わってくる。特に帯がすごい。なんたってこうだ。
「文明の衝突」をめぐる21世紀最大の戦いが始まった!:企業、人間、国家の興亡を賭けたサイバー総力戦
あと94年残ってるんですが21世紀。いきなり「興亡を賭け」ちゃうのかいやたいへんだ。こんな大きな話だとすると、副題の「誰がウェブ2.0を制するか」はずいぶんちっちゃな話だが、編集者の方、これはいったい。
内容はWinny裁判関連がかなりの部分を占めているが、単に事件を追いかけるだけでなく、そもそもインターネットのおこりあたりから、P2P方式の発達史、Winny開発の推移から逮捕、裁判の終盤に至るまでを綿密にフォローしている。平板に書くと面白くなくなってしまいそうな裁判のこまごました部分も、ドラマのように生き生きと描く手腕で飽きさせない。さすが。
ここでいう「文明の衝突」は「ネット」と「リアル」の両文明。梅田さん流にいえばネットの「あちら側」と「こちら側」。ユーザーたちが作り上げてきた「自由な理想郷」であったインターネットの世界に、企業や政府が「介入」をしかけていて、大きな摩擦を起こし始めている、というのが基本的な構図。法政大学廣瀬教授の論を借りて、3つの将来シナリオである民主化、アナーキー化、そして覇権化のうち、3つめに着目する。これが今起きている動きを理解するキーワードだと。なるほどこのあたりは「ウェブ人間論」では弱かったな。あっちは「人間論」だし。確かにこの視点は大事だと思う。
佐々木さんはジャーナリストとしてこの「戦い」を記録し、今後を考えようとしているわけだが、Winny開発者の金子氏をガリレオにたとえた弁護団のくだりを詳しく解説したあたりをはじめ、随所にネットユーザー、というかフラット化をめざす「ネットの理想」へのシンパシーが見え隠れする。この「三十年戦争」と自身が呼ぶ一種の「聖戦」の戦場で、中立的な立場を一見守りつつも、こっそり言論の援護射撃をやっている従軍記者ふう、といったらいいすぎだろうか。この立場に共感できる人は、はたはたと膝を連打したくなるはずだ。
佐々木さん的には、「戦況」はあまり思わしくないらしい。もちろんジャーナリスティックに、事態を中立的に観察していこうとするのだが、どうも望ましい方向ではない。国家や大企業といった勢力に負けつつあるのではないか、ネットの理想はまたも打ち砕かれるのではないか、と。そうした焦燥感みたいなものが、「殉教者」として裁かれることを選ばなかった金子氏への不満みたいなかたちであらわれている。
結局この本は、佐々木さん自身が考える「結論」を描かない。代わりに「404 Blog Not Found」の小飼さんに語らせている。これまたジャーナリスト的な手法か。やや抽象的な言い回しだが、小飼発言のポイントはこのひとことだと思う。
「結局、結論としてはさほど面白くないものになってしまうんだよね」
小飼さんがいいたいのは「私たちの理想郷はやがて飼い慣らされていくがよさが全部失われるほどでもないだろうからがまんしよう」ぐらいのことだろうか。まあしかたがないよね、と。私もそう思うのだが、同じポイントを視点を変えてみてみる。
将来はたいていの場合、考えうるいくつかの理念型の折衷となる。将来を考えるとき、私たちはつい極端な姿を想像しがちだ。少なくとも、将来像について語る人、特に将来について悲観的な像を語る人ほど、極端な状況を語りたがる。ほら、よくあるじゃない。「年金はもう破綻したも同然」とか「外資ハゲタカが日本を食い尽くす」とか、ああいうやつ。当然といえば当然なんだが、そんな極端なことはほとんど起こらないし、そもそもそう語る人たちだって、文字通りのそういう事態が起きるなんて考えちゃいない。それらは人の関心を引くためのレトリックなのだ。人をひきつけるためには、ただ宇宙船が14万8千光年飛んで行って帰ってくるだけではだめで、未知の敵の攻撃を受けてこのままだと1年後に地球が滅亡する、という図式が必要なのだ。
どんな現実社会も「完全に民主的」だったことはないし、「完全に専制的」だったこともない。もちろん「完全なアナーキー」だったこともない。同じ意味で、ネットの将来をめぐる上記の3つのシナリオ、つまり「民主化」、「アナーキー化」、「な覇権化」のいずれも、おそらく純粋なかたちでは実現しないだろう。一部にアナーキーな状況を含みながら、おおまかには民主的に運営され、かなりの部分に国家や企業の介入を許しながらもここだけはという一線は守る、といった感じだ。面白くないと嘆く人もいるが、それでもそこそこ面白いと思う人がたくさんいるから、世界は回り続けていく。そういうのを「現実」と呼ぶのだ。
とすると、ネットユーザーと企業や国家との軋轢を、帯に踊っていたような「興亡を賭けたサイバー総力戦」みたいにみること自体どうなのよ、ということにならないだろうか。そういう意味で、全体的にこの本、「煽り」がきつめであるという印象を禁じえない。対立の構図で危機感を煽りすぎなのではないかと。そういうのをジャーナリスティックと呼ぶのであれば、ジャーナリスティックな文章はやや性に合わない部分がある、ということになろうか。ただしこれは個人的な好みなので、一般論として必ずしも悪いとは思わない。念のため。私の場合は、同じ状況を楽観的に見ようとする梅田視点のほうがなじみがあるというだけのこと。
ただし、1点だけ批判めいたことをいいたいところがある。上にも書いたが、金子氏に対する不満を表明するくだりだ。関連部分を少し長くなるが引用してみる。
彼が初公判の罪状認否で何を言うのか――私の関心はその一点に絞られていた。 弁護側はかねてから、「Winnyそのものに罪はない。金子被告の開発目的も技術検証のためだ」と主張していた。 しかしその一方で、金子被告は2ちゃんねるなどで激烈な言葉を繰り出し、既存の社会システムへの挑戦を口にしている。そこに「明確な意志」があったことは明らかだった。彼は六〇年代にアメリカ西海岸で生まれた自由思想の、正当な継承者のひとりなのである。そうであれば、彼は初公判でその「明確な意志」を口にするのではないか。 私はそう期待していたのである。 ところが私の期待とは裏腹に、金子被告はみずからが確信していたはずの「明確な意志」については、いっさい口にしなかった。それどころか、 「Winnyの開発は、新型のソフトを作り出すことができるかどうかという技術的な実験として行っていたもので、著作権侵害行為の手助けをするという意図ではありませんでした」 と自身の思想哲学を否定するような発言を延々と続けたのである。しかも用意した意見書を、ただ早口で読み上げるという方法で――。
佐々木さんはこれがよほど不満だったらしい。あとがきには、身勝手ながらとことわりながらも、「なぜ彼は『殉教者』となる道を選ばないのだろうか?」という問いが出てくる(実際、それは身勝手だと思う)。なぜ佐々木さんはそこまで金子氏に「期待」したのか?もちろん真意はわからないが、同じあとがきで、「(金子氏の)発言について、きわめて強い感銘を受けていた。彼の言っていることはまったくもって正しく、そして彼はコンピュータの世界が六〇年代の昔から持っていた理想を体現する人物のように思えたからだ」としているあたりがポイントだろうと想像した。
佐々木さんはおそらく、本当は自分自身が戦いたかったのではないか。そしてその気持ちを、プロの「ジャーナリスト」として封印した。随所に援護射撃の痕跡らしきものも見えるが、全体として、「従軍記者」の立場を貫こうとしたわけだ。しかしそれで本当によかったのか?新聞記事ならともかく、書籍であれば、ジャーナリストが思想を表明してもよかったのではないか。金子氏を煽るくらいなら、自らも「ネットの理想」に殉ずるとまではいかなくても、自分の立場をはっきりと打ち出すべきではなかったか。それが単なる「煽り」ではないなら、小飼さんのことばを借りてくるのではなく、自らの主張で最終章を締めくくるべきではなかったのか。ま、これもまた一読者の「身勝手」な戯言なんだけど。
ネットをめぐる状況をざっと把握しておきたい人、考えてみたい人にお勧め。「ウェブ進化論」「ウェブ人間論」あたりと比較してみるのも面白い。Winny裁判の(法的でない部分の)意味について勉強したい法学部学生さんへの入門編としてもいいと思う。
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